ホテル・ルックスロシア語: Гостиница Люкс, 英語: Hotel Lux)は、モスクワゴーリキー通り(現トヴェルスカヤ通り)10番地にあった、ソビエト連邦の初期時代における、コミンテルンの外国人宿舎である[1]

ホテル・ツェントラール(旧:ホテル・ルックス)修復中の様子。2013年撮影

後に東側諸国の要人となる多くの人物が滞在していたことで知られる。たとえば、ヴィルヘルム・ピークドイツ民主共和国(旧東ドイツ)初代大統領)、ヴァルター・ウルブリヒトドイツ民主共和国(旧東ドイツ)国家評議会議長)、チトーユーゴスラビア大統領)、ラーコシ・マーチャーシュハンガリー共産党書記長首相)、ホー・チ・ミンベトナム国家主席)、周恩来中国首相)、等である[1]

労農赤軍本部第4局から日本に派遣されたスパイ、リヒャルト・ゾルゲアイノ・クーシネンも、コミンテルンの職員だった時期にこのホテルに滞在しており、顔見知りでもあった。ゾルゲがホテルを去って10年後に、ふたりは日本で再会することとなる[1][2]

日本人の滞在者としては、片山潜が有名である。日本共産党代表で、長年にわたるホテル・ルックス居住者として、コミンテルンで最も知られた人物のひとりであった[1]

誕生 編集

革命前、トヴェルスカヤ通り36番地に「フィリッポフの家」と呼ばれるモスクワでも有名なパン屋があった。世紀の変わり目のころに、パン屋の上に豪華なホテルが建てられ、玄関脇のパン屋のほかに、角にはレストランが併設された。十月革命のあと、ホテルはボリシェヴィキによって接収され、『ホテル・ルックス』という名前で、コミンテルンの外国人宿舎となった[1]

1921年6月22日から7月12日にかけて開催された第3回コミンテルン世界大会には、50か国以上の国から約600名の代表が出席し、その多くがホテル・ルックスに宿泊した。世界中の多くの革命家が集ったことで、ホテルは「世界革命本部」として知られることとなる。コミンテルン設立後は、多くの国の共産党指導者が滞在するようになり、コミンテルン関連の建物のうちで最も有名な建物となった[1]

増築 編集

1933年に、5階建てだった建物に2つの階が上乗せされ、部屋の数も約300となった。1933年は、アドルフ・ヒトラーが権力を掌握し、政敵である共産主義者の逮捕を開始する年で、多くのドイツ人共産主義者の亡命に対処するための増築であった。住所表記もゴーリキー通り10番地に変更された[1]

設備 編集

炊事場は各階に2か所ずつ、それぞれに6つのガスコンロと、中央にはひとつのテーブルがあった。トイレは数が少なく、男女用の区別がなかった。中二階の下に6つのシャワー室兼浴室があったが、ときに600人を超す住人を抱える建物としては十分とはいえなかった。浴室は、男女別の時間決め交代制で、「入浴券」が必要だった[1]

裏の中二階には診療所があり、すぐれた主任医師、シャルフマン博士がいた。建物のなかには保育園もあったが、子供たちはファースト・ネームしか使わず、誰の子供なのかを知らずに保母たちは世話をすることとなった。また、理髪室もあり、どちらかといえば、不潔であった[1]

裏側の中二階の暗い廊下には壁新聞が貼ってあり、たとえば、断水した原因とその後の顛末などの記事が手際よく編集され掲載されていた。また、部屋に設置されたスピーカーは、モスクワ放送の音楽、長ったらしい講演、あらゆる種類の声明を流していた[1]

ネズミ 編集

ホテルの全史を通じて、一貫して迫害を受け続けたのはネズミたちだった。ホテルの評判は上々であったが、早い時期からネズミによる被害が報告されている。警備員が毎晩のように棍棒で武装してネズミを追い回したが、ネズミがいなくなることはなかった[1]

プロプスク 編集

ホテルの奥に入るには、エレベータ脇のガラスに詰めていた警備員に、「プロプスク」と呼ばれる通行証を提示する必要があった。コミンテルン関係者のものは赤い表紙で、その他の宿泊者や職員のものは灰色であった。顔見知りの住人であっても、プロプスクが提示されないかぎり、警備員はその人物を通さなかった[1]

訪問者は、ホールの右奥にある「ストル・プロプスコフ」へ行き、この小部屋の窓口にいる係員に訪問先を告げる必要があった。係員の女性は、訪問者の身分証を預かり、電話で訪問先の都合を問い合わせ、問題がなければ、複写式の用紙に、両者の指名、部屋番号、日時を記入した。身分証が返却されるのは、訪問先のサインのある用紙と引き換えにであった[1]

抜け道がないわけではなかった。ゴーリキー通りに面した正面玄関では常にプロプスクの提示が要求されたが、ネミロヴィチャ街に面した裏口ではときたまでしかなく、しかもそこは開けっ放しであることが珍しくなかった[1]

夜の訪問者 編集

1934年12月のセルゲイ・キーロフ暗殺事件のあと、ヨシフ・スターリンは、共産党から「人民の敵」を一掃するためのキャンペーンを開始する。1936年に始まる大粛清は、ホテル・ルックスをも巻き込み、1936年から1938年にかけて、内務人民委員部(NKVD)によって、多くの住人が逮捕された[1]

ホテル・ルックスの住人のなかで最大の比率を占めるドイツ人に関して、内務人民委員部(NKVD)は大規模な動員を行い、「ゲシュタポが取りこぼしたドイツ共産党(KPD)関係者はすべて内務人民委員部(NKVD)が捕まえた」と囁かれるほどであった[1]

逮捕に理由は必要ではなかった。ある夜、内務人民委員部(NKVD)の係官がフランツ・ラングの部屋のドアをノックした。命令されたとおりに部屋の外で待っていると、戻ってきた係官が「どうしてここに立っているのか」と尋ねた。「命令に従ったまでだ」と答えたラングに部屋番号を尋ね、「13号室」という答えを聞くと、「今夜は偶数番号だけだ」と係官は言った。驚いたラングはベッドに戻り、係官が再びドアをノックすることはなかった[1]

1940年8月にレフ・トロツキーが暗殺されたあと、ホテル・ルックスでの粛清はやみ、亡命者たちにはしばしの休息がもたらされた。

終焉 編集

1954年農業博覧会のためにホテルが必要となったときに、最後の政治的住人がホテルを去り、ホテル・ルックスは普通のホテルとなった。名称もホテル・ツェントラールに変更された[1]

通りの名前はのちにトヴェルスカヤ通りに戻されたが、番地はゴーリキー通りのときと同じ10番地のままであった。

遺産 編集

かつての住人の多くが、報告書、記事回想録など、ホテル・ルックスに関する記述を残している。粛清の前の報告は楽観的だが、ネズミの被害については最初期から言及されている[1]

1978年に、ルート・フォン・マイエンブルクが、ホテル・ルックスの歴史を記述する最初の本を出版した[1]

映画 編集

ホテル・ルックスのかつての住人たち 編集

脚注 編集

参考文献 編集

  • ルート・フォン・マイエンブルク『ホテル・ルックス―ある現代史の舞台』大島かおり訳、晶文社、1985年。ISBN 978-4794924117 
  • アイノ・クーシネン『神はその天使を破滅させる : スターリン体制に生きて』島谷逸夫・島谷謙訳、社会評論社、1990年。 

関連項目 編集

座標: 北緯55度45分47秒 東経37度36分31秒 / 北緯55.76306度 東経37.60861度 / 55.76306; 37.60861