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ミロスラヴ・ブラジェヴィッチ

クロアチアのサッカー選手

ミロスラヴ・ブラジェヴィッチ(Miroslav Blažević, 1935年2月10日- )は、ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身の元サッカー選手、指導者。愛称はチーロ[1]クロアチア人である。

チーロ・ブラジェヴィッチ Football pictogram.svg
CirBlaz face.JPG
名前
愛称 チーロ
ラテン文字 Miroslav Blažević
基本情報
生年月日 (1935-02-10) 1935年2月10日(84歳)
出身地 トラヴニク
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1954–1955 ディナモ・ザグレブ 0 (0)
1955–1957 ロコモティヴァ・ザグレブ 4 (0)
1957–1959 サラエヴォ 14 (0)
1959–1963 リエカ 48 (4)
1963–1965 シオン
監督歴
1968–1971 ヴヴェイ
1971–1976 シオン
1976 スイス
1976–1979 ローザンヌ
1979–1980 リエカ
1980–1983 ディナモ・ザグレブ
1983–1985 グラスホッパー
1985 プリシュティナ
1986–1988 ディナモ・ザグレブ
1988–1991 ナント
1991–1992 PAOKテッサロニキ
1992–1994 ディナモ・ザグレブ
1994–2000 クロアチア
2001 イラン
2002 オシエク
2002–2003 ディナモ・ザグレブ
2003 ムラ
2003–2005 ヴァルテクス
2005 ハイデュク・スプリト
2005–2006 ヌーシャテル・ザマックス
2006–2008 ザグレブ
2008–2009 ボスニア・ヘルツェゴビナ
2009–2010 上海申花
2010–2011 中国 U-23
2011–2012 メス・ケルマーン
2012–2013 ザグレブ
2014 スロボダ・トゥズラ
2014–2015 ザダル
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

クロアチア代表監督として1998年のFIFAワールドカップで3位。クロアチアでは「全ての監督の監督」と呼ばれる[1][2]

来歴編集

現役時代はリエカサラエヴォシオン等でプレー。選手生活の晩年を過ごしたスイスで指導者に転身し、1974年に古巣シオンの監督としてスイス・カップで優勝している[1]

1979年にリエカの監督としてユーゴスラビアへ戻り、1980年にディナモ・ザグレブの監督に就任。1981-82シーズンにはディナモを24年ぶりのユーゴスラビア・リーグ優勝へ導いた[3]。ユーゴスラビアの混乱期には、グラスホッパー(スイス)、ナントフランス)、PAOKテッサロニキギリシャ)と西側諸国のクラブで監督を歴任。

クロアチア独立後の1992年にディナモへ復帰。1994年からはクロアチア代表監督を務めた。ズボニミール・ボバンダヴォール・シューケルロベルト・プロシネチキ等を擁したクロアチアは、1996年のUEFA欧州選手権で準々決勝へ進出。1998年のFIFAワールドカップでは3位に躍進した[1]

クロアチア代表監督退任後は、膵臓癌や皮膚癌に冒されながらも、イラン代表ボスニア・ヘルツェゴビナ代表上海申花中国)等で監督を務めた[1]。2007年には長年の功績を称えられ、フラニョ・ブチャル賞(クロアチアスポーツ殿堂)功労賞を受賞している[2]

人物編集

ボスニア・ヘルツェゴヴィナに生まれたクロアチア人である[4]スイスの市民権を持つ[5]。1962年にズデンカ・ジョルジェヴィッチと結婚。夫妻には3人の子供と5人の孫がいる[6]。彼の2人の兄弟アントとヨソはウスタシャ(第二次大戦中に民族浄化運動を行っていたクロアチアのファシズム政党)の一員であり、その戦闘中に17歳で死んだ[7]

フラニョ・トゥジマンの支持者であり、クロアチア民主同盟(HDZ)にも党員として籍を置いていた[1][8]。トゥジマンの死後、後継となったイーヴォ・サナデルの親EU路線に反発してHDZを離党。2005年のクロアチア大統領選挙に出馬したが、全体の0.8%の得票で落選した[9]。その後HDZへ復党。2009年からザグレブ市議会議員として活動した[10]

獲得タイトル編集

選手
監督

脚注編集

外部リンク編集