ロラン夫人: Madame Roland1754年3月17日 - 1793年11月8日)は、フランス革命ジロンド派の指導者の1人である。ジロンド派の黒幕的存在だったことからジロンド派の女王とも呼ばれた[1]

マリー=ジャンヌ・フィリポン・ロラン, ラ・プラティエール子爵夫人
Marie-Jeanne Phlippon Roland, vicomtesse de La Platière
Madame Roland.png
ロラン夫人の肖像画
生誕Marie-Jeanne Phlippon
マリー=ジャンヌ・フィリポン

(1754-03-17) 1754年3月17日
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国パリ
死没1793年11月8日(1793-11-08)(39歳)
Flag of France (1790-1794).svg フランスパリコンコルド広場
死因ギロチン恐怖政治
住居リヨンパリ
国籍フランスの旗 フランス
別名ロラン夫人
Madame Roland
民族フランスの旗 フランス
市民権フランスの旗 フランス
教育修道院での1年間の教育と独学
著名な実績サロンでの討論と文筆活動
政党ジロンド派
敵対者マクシミリアン・ロベスピエール
配偶者ジャン=マリー・ロラン
非婚配偶者フランソワ・ビュゾー
Gratien Phlippon
グランタン・フィリポン

本名はマリー=ジャンヌ・フィリポン・ロラン, ラ・プラティエール子爵夫人(: Marie-Jeanne Phlipon-Roland, vicomtesse de La Platière)。旧姓はフィリポン。

マノンはペンネームだが、夫が内務大臣のジャン=マリー・ロラン[2]であったことから、ロラン夫人と呼ばれ、夫と区別してマノン・ロランとも言う。

美貌に加えて並外れた知性と教養を持っていたが、平民出身だったために貴族に受け入れられず、共和主義者になる。フランス革命を主導した人物の1人となるも、次第にジャコバン派と対立し、捕らえられたロラン夫人は失望のまま処刑された。彼女が残したメモはフランス革命を知る一級資料とされている。

略歴編集

  • 1754年 パリシテ島ケ・ド・ロルロージュフランス語版41番地の、女たらしでギャンブル好きながら彫刻家(彫金師)の父を持つ中流ブルジョワ家庭に生まれる。幼少の頃より英才教育を受けて、ヴォルテールモンテスキュープルタルコスルソーらの書物に親しんだ。なかでも、ルソーが女性特有の貞操を表した"a pleasurable loss of self-control(英語版より)"という言葉に感化され、彼女はこれを"苦痛や自己犠牲を厭わない母性的な勇気"と同義に捉らえた[3]
  • 1776年 後の夫の工業監督官ロランと交際。
  • 1780年 20歳の年の差があったが結婚。以後、妻の影響でロランは政治に関わる。
  • 1784年 夫妻共々リヨンに赴く。
  • 1790年 ロランがリヨン代議員に選ばれ、リヨンの債務削減交渉のためパリに派遣される。
  • 1791年 夫妻共々パリに移住。オテル・ブリタニーク(Hotel Britannique、現在のパリ1区ヴィクトリア大通りフランス語版20番地)においてサロンを開きブリッソーロベスピエールなど、特に愛人のビュゾーら各界の名士と交流。ジロンド派を形成する。
  • 1792年
    • 3月 ロランが内務大臣となる(完全に妻の言いなりだった)。
    • 9月 立法議会において山岳派と対立。
  • 1793年
    • 国王裁判ではルイ16世の敵国内通を公表した。
    • 国王処刑後、一部の者がダントンと妥協を図ろうとするがロラン夫人が原因で失敗。     
    • 6月 抗争激化。夫と子供、愛人を逃がした後、逮捕され投獄される。獄中で回想録を執筆する。
    • 11月8日  Ô Liberté, que de crimes on commet en ton nom ! 「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した後、処刑された。2日後、逃亡先でその知らせを聞いた夫は自殺した。
    • 遺体はマドレーヌ墓地(fr)に埋葬されたが、後に墓地の閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送されている。

関連項目編集

脚注編集

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  1. ^ ロラン夫人 ジロンド派の女王と呼ばれた才媛/フランス革命/人物|Histoire イストワール” (日本語). Histoire イストワール. 2020年7月14日閲覧。
  2. ^ Jean-Marie Roland
  3. ^ Walker, Lesley (Spring 2001). “Sweet and Consoling Virtue: The Memoirs of Madame Roland”. Eighteenth-Century Studies 34 (3): 403–419. doi:10.1353/ecs.2001.0034. http://www.jstor.org/stable/30053986 2012年1月3日閲覧。. 

外部リンク編集