上本 孝一(うえもと こういち、1963年4月29日 - 2006年5月5日)は、京都府舞鶴市出身のプロ野球選手(捕手)、プロ野球審判員。審判員袖番号は31988年初採用から2006年死去まで。上本の死去後、審判員袖番号3は一時欠番となっていた)。

上本 孝一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府舞鶴市
生年月日 1963年4月29日
没年月日 (2006-05-05) 2006年5月5日(43歳没)
身長
体重
179 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1981年 ドラフト5位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴・人物

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西舞鶴高校を経て、1981年のドラフト5位で広島東洋カープに入団。達川光男の存在で出場機会に恵まれず1984年現役引退

1985年からセ・リーグ審判員となる。同じセリーグ審判の橘高淳とは同期入局である。生涯通算試合出場数は1412試合、オールスターゲーム2回出場(1993年と2001年。2001年の第1戦で球審)。東京審判部の中堅であったが日本シリーズの出場はなかった。

1995年4月15日巨人阪神戦で巨人の落合博満が2000本安打を記録した試合と1996年8月11日の巨人 対 中日戦で中日の野口茂樹ノーヒットノーランを記録した試合でそれぞれ球審を務めていた。

また、東京審判部所属でありながら愛知以西、関西審判部のエリアで行われるゲームでジャッジを務める事が多く「関西審判部所属」と勘違いされるほどであった。球審時は佐々木昌信と同じ黄色マスクを使っていたが、上本のマスクはスロートガード装着型だった。

2002年8月1日の巨人 対 中日戦で中日の川上憲伸ノーヒットノーランを記録した試合で球審を務めていた。8月23日の巨人戦で阪神監督・星野仙一とコーチ・田淵幸一に生涯唯一の退場処分を下した審判である。

在職中の2006年5月5日11時40分、埼玉県朝霞市の自宅で就寝中に心筋梗塞のため急死[1]。43歳没。

亡くなる前日にはデーゲームで行われた中日 対 横浜ナゴヤドーム)に一塁塁審として出場していた。セ・リーグの審判では1966年1月5日に亡くなった野武貞次以来となる現職での死去であった。翌5月6日にはセ・リーグ公式戦3試合において半旗が掲げられ、試合前に全選手・審判員が黙祷を行った。上本が付けていた袖番号「3」は一時欠番扱いとなった(2011年の日本野球機構による審判員業務統合により失効。現在は袖番号「3」は敷田直人が付けている)。

逸話

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上本が1984年にカープを退団した際、カープの同僚が上本の送別会を兼ねた忘年会を開いた模様が当時、NHKの番組で紹介されたことがあり、その映像が2021年5月28日放送の『ラウンドちゅうごく』(中国地方5県【広島県岡山県山口県島根県鳥取県】ローカル放送)で紹介された[2]

1996年9月20日、巨人対中日(東京ドーム)試合終了後に、上本は三塁側通路で待ち受けた中日・星野仙一監督に抗議され、3分間ほど小競り合いとなった。試合終了後、それも通路での抗議は異例であり、止めに入った田中俊幸審判の足を蹴ったとして、星野にはセ・リーグから制裁金100万円の裁定が下された[3]

2005年9月3日の横浜vs阪神で、横浜の佐伯貴弘の打席の際、カウント2-3で阪神の安藤優也の投球がボールで四球となり、佐伯は一塁に行こうとしたが上本がボールカウントを間違えて佐伯を呼び止めて打席に戻した。この後佐伯はレフト前にヒットを放ったが、このミスジャッジによりセ・リーグは9月6日に上本へ厳重戒告処分を下した。

詳細情報

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年度別打撃成績

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  • 一軍公式戦出場なし

背番号

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  • 63 (1982年 - 1984年)

審判出場記録

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  • 初出場:1987年9月19日、ヤクルト横浜大洋23回戦(神宮球場)、左翼外審。
  • 出場試合数:1412試合
  • オールスター出場:2回
  • 日本シリーズ出場:なし

(記録は2006年シーズン終了時)

脚注

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  1. ^ "上本孝一氏死去/プロ野球セ・リーグ審判員". SHIKOKU NEWS. 四国新聞社. 5 May 2006. 2021年7月15日閲覧
  2. ^ 「あのときを取材中@山陰山陽放送局 わが県 発掘映像SP」 NHK広島放送局『ラウンドちゅうごく』
  3. ^ 星野監督に制裁金100万円、審判暴行で処分/復刻 - 野球 : 日刊スポーツ

関連項目

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