九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日慶応2年11月16日)- 1943年昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将

九津見くつみ 雅雄つねお
生誕 1866年12月22日慶応2年11月16日
死没 (1943-07-25) 1943年7月25日(76歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
最終階級 海軍少将
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生涯 編集

美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦艦長などを経て、日露戦争に出征。

日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海戦中の主な戦果は、巡洋艦千歳」とともにロシア海軍駆逐艦「ベズプリョーチヌイ」を撃沈。その後、海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。1918年(大正7年)12月、海軍少将に進んだ。

年譜 編集

  • 1889年4月20日 - 海軍兵学校卒業(15期)・海軍少尉候補生・「金剛」乗組
  • 1890年3月14日 - 「天龍」乗組
  • 1894年4月4日 - 「鳥海」航海士兼分隊士
  • 1895年2月20日 - 海軍大尉横須賀水雷隊敷設部分隊長
    • 12月27日 - 横須賀水雷隊攻撃部艇長
  • 1901年1月22日 - 「曙」駆逐艦長
  • 1905年1月27日 - 「有明」駆逐艦長
  • 1907年4月12日 - 「肥前」副長兼「津軽」副長
    • 10月15日 - 「出雲」副長
  • 1909年7月9日 - 佐世保敷設隊司令
  • 1910年12月1日 - 「葛城」艦長
  • 1912年12月1日 - 海軍大佐・横須賀鎮守府
  • 1913年5月24日 - 「日進」艦長
    • 6月3日 - 舞鶴港務部長
  • 1914年12月1日 - 呉港務部長
  • 1918年11月1日 - 呉鎮守府
    • 12月1日 海軍少将
  • 1919年8月1日 - 予備役
  • 1922年11月16日 - 後備役
  • 1927年11月16日 - 退役
  • 1943年7月25日 - 歿 (76)

栄典 編集

脚注 編集

  1. ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日
  2. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。

参考文献 編集

  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。