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京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、江戸時代末期幕臣によって結成された京都治安維持組織

目次

概要編集

創設編集

文久二年(1862年)の京都守護職の設置や八月十八日の政変により京都での反幕府勢力による活動は衰退していた。しかし京都における反幕府勢力は完全に駆逐できたわけではなく、復権の可能性がありえた。江戸幕府は、反幕府勢力の復活による治安の悪化を防ぐために京都見廻組を新設した[1]元治元年(1864年)、江戸幕府京都守護職会津藩主の松平容保の配下として、蒔田廣孝(備中浅尾藩主)と松平康正(旗本)を京都見廻役に任命した。京都見廻役は、京都見廻組を統括する役職とされ、京都への赴任が命じられた[2]。蒔田・松平がそれぞれに配下の組を持ち、それぞれの官職名から相模守組(蒔田)と出雲守組(松平)と称され、各200名ほどの隊士を指揮した[3]。隊長である与頭は旗本、隊員は御家人であった。詰所は二条城の側に置かれたとされる。与頭、与頭勤方、肝煎、見廻組、見廻組並、見廻組御雇、見廻組並御雇などの職階があった。

見廻組は新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したが、見廻組は主に御所二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園三条などの町人街・歓楽街を管轄とした。そのためか、新選組と共同戦線をとることはあまり無かったようである。ただ身分の違いにより反目することもあったという。見廻組は旗本の次男・三男で剣術に秀でた者を募っていた[4]

見廻組には格別な規律を当初は定めていなかったが、その後、見廻役より与頭と与頭勤方へ「京都見廻役勤中心得方」が出され、組士の心構えや行動規範が示された。また、私的な依頼による行動も外部からの信頼を失うため、禁止された[5]

龍馬暗殺編集

大政奉還後、相模組与頭の佐々木只三郎坂本龍馬を討殺する為に今井信郎、渡辺吉太郎、渡辺篤、桂早之助、世良敏朗、高橋安次郎の6人を選抜する。[要出典]慶応3年11月15日、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎の殺害に成功する(近江屋事件)。当初は、新選組の犯行と考えられたが、物証はなく、明治3年(1870年)に元見廻組の今井信郎が自供したことによって、見廻組の犯行と認められた[6]。龍馬殺害の動機として、慶應2年(1866年)1月、寺田屋事件(寺田屋遭難事件)の際、龍馬が拳銃を使い、捕り方を射殺し逃走した。その犯行の件で龍馬を捕らえるためだった。龍馬殺害は見廻組の公務執行であり職務遂行であったとされている[7]

崩壊編集

慶応3年12月14日1868年1月8日)、新遊撃隊に改称されたが、12月25日1月19日)、見廻組に名称を戻し戊辰戦争に参加、慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いにおいて、鳥羽街道での先鋒として薩摩藩兵らと交戦するが、銃を装備していなかった先頭の見廻組は苦戦し、他の幕府軍と共に退却する[8]。6日、橋本付近での戦闘に参加するが、戦闘を指揮していた佐々木只三郎が重傷を負った。

大阪へ敗走後は、徳川慶喜大阪城を脱し、江戸へ向かったため、旧幕軍は抗戦を断念。旧幕軍のうち、諸藩兵は国元へ、幕臣と会津藩兵は負傷兵を中心に富士山丸と順道丸に乗船となり江戸へ向かった。ただ見廻組の多くの隊士は他の旧幕兵と共に陸路で紀州に向かい、紀伊半島で船便を調達し江戸へ帰還した[9]

慶応4年3月18日1868年4月10日)、狙撃隊に改称された。 5月に新政府は徳川家達駿河国府中(静岡市)の城主として、徳川家の移封処分を決定した。見廻組隊士の多くは駿河移住は認められず、小普請入り、いわゆる解雇となり狙撃隊は解隊された。しかし今井信郎などの隊士は解隊後も戦闘を継続。戊辰戦争の箱館戦争(五稜郭の戦い)で降伏した[10]

年表[11]編集

  • 元治元年(1864年)4月  浅尾藩主・蒔田相模守と旗本・松平因幡守が京都見廻役に任命、配下となる見廻組の身分・俸禄の達しが下る。
  • 元治元年(1864年)5月  蒔田相模守が藩士をともなって入京。
  • 元治元年(1864年)6月  池田屋事件勃発後、蒔田相模守に出動要請。二条斉敬邸を守備。
  • 元治元年(1864年)7月  禁門の変勃発のため、御所に急行し、五条通りで長州藩兵と戦闘。
  • 元治元年(1864年)8月  正式に市中警備を開始。
  • 元治元年(1864年)8月  禁門の変の働きに対して、朝廷から蒔田相模守に感状が下される。
  • 元治元年(1864年)11月  見廻組の両組に御所内の警護が命じられる。
  • 慶應元年(1865年)2月  出雲守組に御所南門(建礼門)の警備が命じられる。 
  • 慶應元年(1865年)閏5月 徳川家茂、入京のため相模守組に二条城大宮口の警備が命じられる。
  • 慶應元年(1865年)6月  与頭・同勤方に「京都見廻役勤中心得方」が定められる。
  • 慶應2年(1866年)2月   見廻組・高橋与八郎、下賀茂神社参詣の列に、酔って無礼を働く。
  • 慶應2年(1866年)3月   高橋与八郎に切腹が命じられる。
  • 慶應2年(1866年)3月   高橋与八郎の事件により、松平出雲守は見廻役を引責辞任。
  • 慶應2年(1866年)9月   京都守護職より御所周辺の警備が命じられる。
  • 慶應2年(1866年)11月  堀石見守、松平出雲守の後任として京都見廻役に命じられる。
  • 慶應3年(1867年)6月   岩田織部正、堀石見守の後任として京都見廻役に命じられる。
  • 慶應3年(1867年)6月   蒔田相模守、辞任。
  • 慶應3年(1867年)11月  坂本龍馬を殺害する。(近江屋事件
  • 慶應3年(1867年)12月  見廻組、遊撃隊と改称。大阪へ下り本覚寺等に宿陣。
  • 慶應3年(1867年)12月  新遊撃隊と改称。
  • 慶應3年(1867年)12月  見廻組の旧称に戻される。
  • 慶應4年(1868年)1月   鳥羽・伏見の戦いに参加。旧幕軍と大阪城を撤退して、陸路で紀州に向かう。
  • 慶應4年(1868年)1月   江戸に帰還。以後、江戸城内の警護を行う。
  • 慶應4年(1868年)3月   狙撃隊と改称。
  • 慶應4年(1868年)6月   徳川家達駿府移住が決定。江戸に戻った組士は任を解かれ、見廻組は解体する。

脚注編集

  1. ^ 菊地明著『京都見廻組 秘録 龍馬を斬った幕府治安部隊』洋泉社、2011年、p.13-15
  2. ^ 菊地明著『京都見廻組 秘録 龍馬を斬った幕府治安部隊』洋泉社、2011年、p.15
  3. ^ 菊地明著『京都見廻組史録』新人物往来社、2005年、p.13
  4. ^ 佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか編『京都大事典』淡交社、1984年、p.307
  5. ^ 菊地明著『京都見廻組史録』新人物往来社、2005年、p.80-81
  6. ^ 『坂本竜馬関係文書.第二』| 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号233”. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917633. 2018年10月5日閲覧。
  7. ^ 菊地明著『京都見廻組 秘録 龍馬を斬った幕府治安部隊』洋泉社、2011年、p.152
  8. ^ 菊地明著『京都見廻組 秘録 龍馬を斬った幕府治安部隊』洋泉社、2011年、p.171-172
  9. ^ 菊地明著『京都見廻組 秘録 龍馬を斬った幕府治安部隊』洋泉社、2011年、p.175-176
  10. ^ 菊地明著『京都見廻組 秘録 龍馬を斬った幕府治安部隊』洋泉社、2011年、p.204-211
  11. ^ 菊地明著『京都見廻組史録』新人物往来社、2005年、p.199-205

参考文献編集

書籍

関連項目編集