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伊丹 勝長(いたみ かつなが)は、甲斐徳美藩の第2代藩主。

 
伊丹勝長
時代 江戸時代前期
生誕 慶長8年(1603年
死没 寛文2年3月27日1662年5月15日
改名 作十郎(幼名)→勝長
戒名 幻泡院殿仙誉一夢大居士
墓所 東京都港区虎ノ門の天徳寺
官位 従五位下、播磨
幕府 江戸幕府 勘定奉行
甲斐徳美藩
氏族 伊丹氏
父母 父:伊丹康勝、母:興津内記の娘
兄弟 勝長武勝岡部勝重、ほか
正室:坂崎直盛の娘
側室:井上氏
勝政丸毛利忠勝元
大村純長勝久、娘(大村純信正室)、
娘(皆川秀隆継室のち青山幸通継々室のち川口宗憲室)、娘(柴田康利正室)
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生涯編集

慶長8年(1603年)、初代藩主・伊丹康勝の長男として生まれる。はじめ第2代将軍・徳川秀忠の小姓として仕え、下総相馬郡に1000石の所領を与えられた。寛永10年(1633年)に甲府城番となる。寛永20年(1643年)には甲斐に流罪とされた良純法親王の警護を務めている。承応元年(1652年)には佐渡で反乱を起こそうとしていた一派を鎮圧するなどの功績を挙げている。承応2年(1653年)、父の死去により家督を継ぐ。このとき、私墾田2620石を弟の岡部勝重に分与した。

明暦3年(1657年)、娘が嫁ぎ、さらに勝長の子が養子入りしていた肥前国大村藩領内にて大勢の隠れキリシタンが検挙される事件(郡崩れ)が起きた。本来ならば、キリシタンが領内にいたというだけで大村藩はお取りつぶしの理由としては十分であったが、藩主大村純長は実父の伊丹勝長を通して直ちに幕府に報告、この行為が殊勝とされて、大村藩は全く御咎め無しであった。そもそも娘婿である大村純信が嗣子無いまま死去した際、本来ならば廃藩となるのが常道であった大村藩が、純信正室の兄弟である純長を末期養子とすることで存続を許されている。この養子縁組は幕府の指示によるものとされている。勝長の子である純長に大村氏との直接の血縁関係は無い。

万治元年(1658年)の江戸城普請で功績を挙げたため、万治3年(1660年)12月、従五位下・播磨守に叙位・任官する。

しかし寛文2年(1662年)、勘定奉行岡田善政と共に役宅で駿河代官の一色直正に対して、不正会計の疑いで詮議を行なおうとしていた時、直正によって刺殺された。享年60。跡を長男の勝政が継いだ。