大村 純長(おおむら すみなが)は、江戸時代前期から中期にかけての大名肥前国大村藩の第4代藩主官位従五位下因幡守

 
大村 純長
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永13年8月21日1636年9月20日
死没 宝永3年8月21日1706年9月27日
改名 権吉、権吉郎、権佐
戒名 顕了院忠岳勇翁日長大居士
墓所 東京都港区高輪の承教寺
官位 従五位下因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
肥前大村藩
氏族 伊丹氏大村氏
父母 伊丹勝長:井上氏
養父大村純信
兄弟 伊丹勝政丸毛利忠伊丹勝元純長伊丹勝久、松、皆川秀隆継室、柴田康利正室
正室大村政直の娘・都智
継室有馬康純の娘・
側室:相沢氏
生駒親興正室、純真純尹大田原清勝福田長兼室、純庸西郷寿員、五郎八、久世広隆正室、堀秀行
養女平岡頼雄正室
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生涯編集

甲斐国徳美藩主・伊丹勝長の4男として誕生した。

大村藩主の大村純信慶安3年(1650年)5月に33歳で死去した。継嗣がいなかったことから、大村藩は無嗣断絶の危機に立たされた。

この時、大村家中は全く血縁関係にない勘定奉行伊丹勝長の四男を末期養子とした。ただし伊丹勝長は純信の正室の父にあたるため、親戚関係ではあった。純信は元来病弱であり、幕府の要職にあった伊丹の四男権吉を養子に迎えるため、数年前から準備と交渉を行っていた。また、この養子縁組は幕府の斡旋によるものとされる。一方で家臣団の中には、一族の大村虎之助[1]を後継者に推す意見もあり、純信の死の時点で幕府に対する養子披露は済んでいなかった。本来ならばここで改易となるが、大村藩は純信の死去と同じ日付で権吉を末期養子として幕府に届け出た。当時の幕府でははこのような駆け込みの末期養子は認められていなかったが、実父の伊丹の幕府閣僚各者への働きかけもあって、翌慶安4年(1651年)2月20日に「古い家であるため」という理由で跡目相続が認められた。[2]養子入りの際、大村藩藩士73人が血判状を認めている。

慶安4年(1651年)に襲封したこの養子権吉が純長である。翌承応元年(1652年)、譜代大名の伊丹家出身であったことから、領内に徳川家歴代将軍を祀る「円徳寺」(現在廃寺、跡地は大村護国神社)を建立した。譜代から養子が入ったことにより、純長一代限りではあるが「御譜代並」であったとする史料がある[3]

明暦3年(1657年)、藩内から大勢の隠れキリシタンが検挙される事件(郡崩れ事件[4])が起きた。キリシタンが領内に居たという理由で、本来なら御家取り潰しの理由としては十分であったが、純長は実父の伊丹勝長を通して直ちに幕府に余すところなく報告した行為が殊勝とされて、大村藩は全くお咎めなしであった。その後はさらにキリシタン摘発と処罰、および領民に対する仏教改宗政策を強化した。

寛文10年(1670年)、玖島城内桜馬場に藩校集義館」を開校した。門戸を藩士の子弟ばかりでなく一般庶民にも開放した。集義館は最も早期に開設された藩校の一つで、九州地方では最も早く、全国でも7番目である。集義館は後の長崎県立大村高等学校の母体となっている。

宝永3年(1706年)に江戸で71歳で死去し、跡は次男の純尹が襲封した。

実家の伊丹氏は、勝長の孫の伊丹勝守の代に改易された。勝守には娘が一人いたが、純長がこれを大村藩士の福田兼明の妻とした。

系譜編集

脚注編集

  1. ^ 大村(渋江)公頼の子の虎松丸、のちの大村公広。公広の祖父で大村姓を下賜された大村(渋江)公種の室は純忠の娘、父の大村公頼の室は喜前の娘、と2代に渡り血縁関係があった。公広の生母が喜前の娘であるため、純信と公広は従兄弟の関係となる。
  2. ^ 実祖父の伊丹康勝は、涙を流して喜んだと伝わる。
  3. ^ 『厳命式』-『古事類苑
  4. ^ 603人の隠れキリシタンが郡地区を中心として発見された。最終的に406人が処刑され、釈放されたのは99名だけという、島原の乱以後では最大級のキリシタン摘発事件。
  5. ^ 三好家次?
  6. ^ 大村藩士大村内匠。楠本右兵衛の長男で、大村一門の大村頼直の婿養子となった。純信の生母は頼直の養女で、実父は楠本右兵衛であるため、政直は純信の伯父である。純信と都智は従兄妹の関係となる。