伊藤 史朗 (いとう ふみお、1939年10月10日 -1991年3月10日 ) は、日本の元レーシングライダー。16歳の若さで浅間火山レースに出場しデビュー・ウィンを果たし、世界GPでも活躍を見せ、天才ライダーと評された。

伊藤史朗
グランプリでの経歴
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1960年 - 1961年, 1963年
チーム ヤマハ
レース数 14
優勝回数 1
表彰台回数 4
通算獲得ポイント 34
ファステストラップ回数 2
初グランプリ 1960年 500cc フランスGP
初勝利 1963年 250cc ベルギーGP
最終勝利 1963年 250cc ベルギーGP
最終グランプリ 1964年 250cc 日本GP
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なお名の「史朗」は「ふみお」と読むのが正しいが、親しい関係者は「しろう」と呼ぶ場合が多かった。

略歴

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東京都大田区大森出身。父は音楽家の伊藤昇。「史朗」という名は、父の師である山田耕筰が名付けたという。

1955年11月に開催された第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(第1回浅間高原(火山)レース)の250ccクラスに、ライラックSYで出場。伊藤は当時16歳で、これがデビュー戦だったが、実績ある選手を抑えて優勝を果たした。

1956年ヤマハワークス・チームに加入するが、全日本耐久ロードレース(浅間火山レース)の延期を受け、一時はヤマハを離れ浜松オートレースの選手として活動した。

1957年の第2回全日本オートバイ耐久ロードレース(第2回浅間火山レース)の250ccクラスに、ヤマハワークスライダーとして出場し、リタイヤ。

1958年5月、アメリカはカリフォルニア州のカタリナ島で開催されたカタリナGP(世界GP戦ではない)にヤマハワークスライダーとして初出場。ヤマハも伊藤も初の海外レースだったが、6位に入賞する。同年8月の第1回全日本クラブマンレースの国際オープンクラスに、バルコム貿易(BMWの輸入元)のBMWで出場し、6位。

1959年の第3回全日本オートバイ耐久ロードレース(第3回浅間火山レース)では、バルコム貿易のBMWに乗って500ccクラスで優勝。

1960年ロードレース世界選手権(世界GP)に初出場。マシンはBMW-RS500。世界GP500ccクラスへの出場は日本人初。バルコム貿易(BMW輸入元)のヘルマン・リンナー(ドイツのBMW本社から派遣されていた)が伊藤の実力を評価し、BMW本社に交渉して前年度のワークスマシン・RS(レンシュポルト)に乗るチャンスを与えたという経緯がある。BMWのワークス活動は前年までで終了していたため、伊藤は個人出場(プライベート)という扱いになっている。

1961年にヤマハが世界GPに初参戦。伊藤はワークスライダーとして世界GPを転戦し、125ccと250ccの両クラスに出場した。

1962年はヤマハが世界GPに出場しなかったため、伊藤も世界GPには参戦していない。

1963年にヤマハが世界GP出場を再開したのに合わせ、再び各地を転戦。伊藤はキャリアのピークを迎え、ベルギーGPで優勝した(これはヤマハ初の世界GP優勝でもある)。また、その他に2位入賞3回という成績を残し、わずか4戦限定の出場にもかかわらず、見事250ccクラス世界ランキング3位に輝いた。

1964年の年頭に行われたマレーシアGP(世界GP戦ではない)でトップを走行中に転倒し頭部を強打。それ以降、成績は低迷する。この前後にプリンス自動車と契約し、4輪レース出場を計画していたが、4輪の実戦には出場しなかった。歌手として数枚のレコードも発表している。

1965年に銃刀法違反(拳銃の密輸や所持)の容疑で逮捕された。また薬物依存の傾向があるなど、私生活や素行に問題があったと指摘されている[1]。逮捕により、日本放送協会が制作していたドキュメンタリー番組「ある人生 240キロメートルの孤独」は放送されることなくお蔵入りとなった[2]

アメリカへ

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銃刀法違反で逮捕・釈放後、アメリカに渡ったと言われる。

伊藤は「ヤマハを離れタクシーの運転手をした後、妻とともに1966年にフィリピンとハワイを経てロサンゼルスに渡った。アメリカへは不法入国し、そのまま不法滞在し、市民権を取るために本来の妻とは別の白人と入籍していた」と告白している[3]

諸説あるが、その後は一度も日本に帰国せず、死去するまでアメリカで暮らしたと言われる。銃刀法違反で執行猶予中に、アメリカに不法入国したため、市民権が取れず、日本への帰国もできなかったらしい[3]

一時はフロリダ州オーランドに住み、ダウンタウンの一角で「一番」という名の中規模の日本レストランを経営し、ホテルチェーンで有名な「ホリデイ・イン」のフロリダ南部地区の副社長という肩書きを持っていたという[1]

アメリカでも一時は2輪レースへの復帰を希望していた[3]。革ツナギメーカークシタニ(伊藤が現役当時に着用していた)の元会長(櫛谷稔子)は、「スズキ伊藤光夫さん(ワークスライダー)がアメリカに行った際、伊藤史朗さんから革ツナギが欲しいと頼まれたというので、革ツナギを作って手渡した」というエピソードを語っている[4]

1991年、アメリカで死去。

エピソード

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ドイツのBMW本社から日本に派遣されていたヘルマン・リンナーは「多くのライダーを見てきたが、伊藤ほど最初から上手にBMWを乗りこなす感覚の鋭いライダーは初めてだ」と述べていたという[1]

1960年の世界GP500ccクラス参戦で貸与されたのは、前年まで元世界チャンピオンのジェフ・デュークが乗っていたマシンだったが、伊藤は初めて乗ったマシンを名手デューク以上に巧みに操ったという。当時の日本には舗装のレース専用コースが存在せず、舗装路でのレースは伊藤にとって生まれて初めてだったが、初戦フランスGPで予選3位、決勝6位という好成績を挙げている。

浅間火山レースなどで伊藤と争ったライバルの高橋国光は、「自分のことを天才だとは思わないが、伊藤史朗君は天才でしょう」と語っている[5]

石原慎太郎の小説『跳べ、狼』(1964年)の主人公は、伊藤がモデルであると言われる。伊藤と石原には親交があったと言われる。石原の弟の石原裕次郎も、伊藤と親交があったらしい。

大藪春彦の小説「汚れた英雄」(1969年)の主人公・北野晶夫は、伊藤がモデルという説がある(ただし作者の大藪はこれを否定している。実際同作品には晶夫とは別に伊藤自身が登場している)。また、大藪の短編「死のグランプリ」は伊藤の経歴をそのままなぞった伊村哲朗なるレーサーが1967年日本グランプリ (4輪)で活躍するという作品であった。

1965年に銃刀法違反で逮捕されたのと同時期、多くの芸能人や文化人やスポーツ選手も同様の嫌疑をかけられ社会問題化した。嫌疑をかけられた中には石原裕次郎や大藪春彦、大相撲の横綱大鵬なども含まれていた。

1985年に刊行された「伊藤史朗の幻」(小林信也著、CBSソニー出版。バイク誌「CYCLE WORLD」連載記事をまとめたもの)の中に、「日本で最も有名で優秀なマシンチューナーに、45歳の元ライダーが現在(1980年代半ば)のレース用バイクに乗れるかと聞いたが、高橋国光でも無理だと返答された。そのライダーが伊藤史朗だと伝えたところ『彼ならできるかも知れない。彼は化け物だ。伊藤史朗だけは別だ。一度乗るならうちのマシンを貸してもいい』と言われた」というエピソードが登場する。「日本で最も有名で優秀なチューナー」とは、ヨシムラジャパン創業者の吉村秀雄(ポップ吉村)だと言われる。

世界グランプリ戦績

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順位 1 2 3 4 5 6
得点 8 6 4 3 2 1

イタリック体はファステストラップ

Year Class Team 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 Points Rank Wins
1960 500cc BMW FRA
6
IOM
-
NED
10
BEL
10
GER
-
ULS
-
NAT
-
1 15th 0
1961 125cc ヤマハ ESP
-
GER
-
FRA
-
IOM
11
NED
-
BEL
-
DDR
-
ULS
-
NAT
-
SWE
-
ARG
-
0 - 0
250cc ヤマハ ESP
-
GER
-
FRA
-
IOM
6
NED
6
BEL
5
DDR
-
ULS
-
NAT
-
SWE
-
ARG
4
7 9th 0
1963 250cc ヤマハ ESP
-
GER
-
IOM
2
NED
2
BEL
1
ULS
-
DDR
-
NAT
-
ARG
-
JPN
2
26 3rd 1
1964 250cc ヤマハ USA
Ret
ESP
-
FRA
-
IOM
-
NED
-
BEL
-
GER
-
DDR
-
ULS
-
NAT
-
JPN
Ret
0 - 0

脚注

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  1. ^ a b c 「浅間からスズカまで」酒井文人著、八重洲出版、1990年
  2. ^ 制作者研究〈 テレビ・ドキュメンタリーを創った人々〉”. 放送研究と調査 (2012年). 2019年7月5日閲覧。
  3. ^ a b c 「伊藤史朗の幻」小林信也著、CBSソニー出版、1985年
  4. ^ 「別冊モーターサイクリスト」2001年7月号、八重洲出版
  5. ^ 「ノスタルジックヒーロー」2010年2月号、芸文社

関連項目

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