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佐藤 忠能(さとう ただよし、生年不詳 - 天正6年3月29日1578年5月5日[1][2])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三省。紀伊守。加治田城城主。父は佐藤清房、母は徳林妙福大姉、兄弟に秀清。子に忠康(信氏)、昌信、斎藤利治室、佐藤継成室、仁甫竜義大姉、岸信周養女(八重緑)。養子に斎藤利治がいる[3]。 なお、初め桑原右近衛門尉と言ったが、永禄8年(1565年)までの間に佐藤姓に改めたという説もある[4](ただし、桑原右近衛門尉を忠能の子・忠康と見たり、無関係と見たりする説もある[5])。

目次

生涯編集

美濃国国人で、藤原秀郷の流れを汲む家系と云わる[6]美濃斎藤氏に仕え、斎藤道三方として土岐頼芸の追放に加わるが、弘治2年(1556年)の道三に子の斎藤義龍が反乱した長良川の戦いでは義龍方として従軍した[7]

その戦功により感状をもらい(黄薇古簡集)、西田原(400貫)・神野(300貫)の他、加茂郡武儀郡で4,389貫の所領を得た[4]

斎藤龍興の代になると、尾張国織田信長の侵攻に備えるため、関城主・長井道利、堂洞城主・岸信周の三者で盟約を結ぶ。しかし、忠能父子は家臣の梅村良澤を遣わして、信長に内通[8]。信長から武儀郡・加茂郡・郡上郡の反銭を押さえ、その土地を手に入れ次第知行してよいという褒賞を得た[9]

その後、西美濃三人衆が信長に寝返るという風聞が伝わると、岸らに去就を問われ、信長への内通を悟られぬために娘(八重縁と伝わる[10])を信周の子・信友に嫁がせる[11]

永禄8年(1565年)8月、織田信長が美濃国に侵攻すると密約通り織田側に与し、そのために岸信友に嫁がせた娘は磔にされ、加治田城に面した長尾丸山に晒された。遺骸は夜になって家臣・西村治郎兵衛が奪取し 龍福寺に埋葬されたという[12]

長井道利は肥田忠政共に織田方に寝返った加治田城を奪取しようと、加治田から25町先の堂洞城の岸信周と共に出陣。自らは関城で後詰をした。これに対し、8月28日、織田軍も堂洞城に攻撃を開始。忠能父子は織田軍側で堂洞城攻撃に加わり、6時間の攻防の末、堂洞城は陥落(堂洞合戦)。その日、信長は忠康の在所に宿泊し、忠能父子は感涙を流したという[13]

堂洞城落城後、長井道利が東から、飛騨忠政が西から東西より加治田城へ攻め寄せてきた(関・加治田合戦)。加治田絹丸捨堀において激しい攻防戦となるが、織田方の斎藤利治の援軍も得て、加治田勢は奮闘し長井勢を追い払った。東北では、佐藤忠能が自ら川浦川天然の堀で肥田忠政と激戦を行い、忠能自ら5度合戦に挑み、忠政を撃退した。なお、この戦いで子の忠康は討ち死にしたとされる[12]

永禄10年(1567年)、信長の命で斎藤利治を養子として加治田城を任せ、自らは隣村の伊深村に隠居し、加治田に菩提寺の龍福寺を建立した。同寺には忠能が花押署名した文書6点が遺されている[14]

なお、この忠能から利治への家督相続については、『三十一祖御修行記』[15]の記述により、永禄8年(1565年)から同10年(1567年)の間に忠康と弟・昌信の間で争いが置き、昌信が忠康を殺して加治田城を奪ったが、稲葉山城攻撃の直前だったため、信長の勘気に触れて忠能は引退し、昌信は武芸八幡に移封またはお預けとなって、子孫はこの不名誉を忠康が戦死したことにして隠蔽したという説がある[16]

永禄12年(1569年)7月、山科言継が岐阜に滞在した際、交遊を持った。その間に信長が義龍の持っていた壺を差し出せと言い、紛失したとあっては忠能を含む国衆17人が切腹しなければならなくなったが、無事解決したという(『言継卿記』)[17]

天正6年3月29日(1578年5月5日)に病死。龍福寺に埋葬された[1]。戒名は真珠院殿慶岩竜雲居士。

人物編集

  • 美濃斎藤氏においても有力国人衆であった。織田家においても斎藤利治を正室院の養子とした後も老臣の宿老であった。
  • 絵画では、漉酒巾の頭巾をかぶり、左手に経巻をもち、右手に如意をもっており、常に平時から正装・合戦時まで頭巾をかぶっていたとされる。
  • 「大意 武勇に好み、仁と智がある。 一本のを手にすれば、夏に逢っても暖かい感じがする(中略)壮年軍勢を指揮して、敵に対するときは、鶴翼魚鱗の陣を布いて常に勝ちを占めた」
  • 隠居後も京都の公卿と交遊があり、社交性と人物の広さを示している。
  • 紀伊守の一周忌では養子の息子である斎藤利治が香語を述べ、忠次となっている。「或る時は却敵城を守り、勝を千里に決し、或る時は諸仏地に入って、意を三辺に投ず、僧を度し且つ精舎を県立す。」

主要家臣団編集

参考文献編集

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ a b 『堂洞軍記』「関城攻之事」
  2. ^ 龍福寺の過去帳によれば、天正5年3月29日(1577年4月17日)であるという(富加町史編集委員会「紀伊守の系譜」『富加町史』下巻 通史編、岐阜県加茂郡富加町、1980年、208頁。)。
  3. ^ 富加町史編集委員会「佐藤氏系譜」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、209頁。
  4. ^ a b 関市教育委員会「加治田城主の支配」『新修 関市史 通史編』関市、1996年、790 - 792頁。
  5. ^ 美濃加茂市「桑原右近衛門尉」『美濃加茂市史』通史編、美濃加茂市、1980年、264 - 267頁。
  6. ^ 富加町史編集委員会「佐中濃地区及び県外における佐藤氏」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、222頁。
  7. ^ 富加町史編集委員会「紀伊守の戦歴と人物」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、210頁。
  8. ^ 太田牛一信長公記』 巻首 「加治田の城、御身方に参る事」
  9. ^ 関市教育委員会「堂洞城の攻略」『新修 関市史 通史編』関市、1996年、842 - 844頁。
  10. ^ 富加町史編集委員会「堂洞合戦」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、194頁。
  11. ^ 『堂洞軍記』「龍興栄花之事」
  12. ^ a b 『堂洞軍記』 「堂洞合戦之事」
  13. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「堂洞の取出攻めらるゝのこと」
  14. ^ 富加町史編集委員会「竜福寺と紀伊守」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、215頁。
  15. ^ 時宗の31代遊行上人同念の近侍者が天正8年(1580年)3月以降あまり時日を経ずして書いたといわれるもの(関市教育委員会「佐藤紀伊守家の内紛」『新修 関市史 通史編』関市、1996年、852 - 856頁。)。
  16. ^ 関市教育委員会「佐藤紀伊守家の内紛」『新修 関市史 通史編』関市、1996年、852 - 856頁。
  17. ^ 富加町史編集委員会「山科言継卿と紀伊守」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、220 - 222頁。

外部リンク編集