斎藤龍興

戦国時代の美濃国の戦国大名、道三流斎藤家3代、美濃一色家2代。刑部大輔

斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、戦国時代美濃国戦国大名道三流斎藤家3代(美濃一色家2代)[3]

 
斎藤 龍興
時代 戦国時代
生誕 天文16年3月1日(1547年3月22日)[1]または天文17年(1548年
死没 天正元年8月10日1573年9月6日[2]
改名 喜太郎(幼名)→龍興
別名 右兵衛大夫、治部大輔(通称)、一色義糺、一色義輔、一色義棟、一色義紀、一色式部大輔
戒名 瑞光院竜淵宗雲日珠大居士
墓所 常在寺岐阜県岐阜市)※位牌のみ
主君 足利義輝足利義栄朝倉義景
氏族 斎藤氏一色氏
父母 父:斎藤義龍、母:近江局
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生涯 編集

家督相続 編集

天文17年(1548年)、斎藤義龍の庶子として生まれたと伝わるが、生母が近江の方(近江局)という説が事実であるならば、義龍正室の子となり、嫡男となる。近江の方は浅井久政の娘という説があるが、義龍と久政は年齢が1つしか違わないため、近江の方は久政の実子ではなく養女ということになる。よって近江の方は、久政の父・浅井亮政の娘であるというのが有力な説となっている。道三と義龍との父子関係を肯定するのであれば、斎藤道三の実の孫に当たる。

永禄4年(1561年)、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぐ。しかし祖父や父と比べると凡庸で、父の代から続く尾張国織田信長の侵攻、祖父の代より続く家臣の流出(森可成坂井政尚堀秀重斎藤利治明智光秀等)、評判の悪い斎藤飛騨守の重用などにより、家臣の信望を得ることができなかった。

永禄4年の森部の戦いにおいては、戦いそのものには勝利したものの、重臣(斎藤六宿老)の日比野清実長井衛安らを失う。永禄5年(1562年)には、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数が病没する。

美濃国攻防戦と敗走 編集

 
稲葉山城(岐阜城)

龍興は信長の侵攻に対処するため、父・義龍の進攻対象であった北近江浅井長政同盟を結ぼうとした。しかし信長に機先を制され、長政は信長と同盟を結び、逆に美濃に侵攻するようになる。この時は義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻したため、長政は美濃攻めを中止して撤退している。

永禄6年(1563年)、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中重治の活躍もあって織田軍を破った(新加納の戦い)。しかし永禄7年(1564年)、斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治と、その舅であり西美濃三人衆の1人・安藤守就によって飛騨守を殺害されて居城の稲葉山城を占拠され、龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走した。後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還したため、龍興は美濃の領主として復帰したものの、この事件により斎藤氏の衰退が表面化する。織田信長の永禄5年頃から始まった小牧山城築城により圧力がかかった東美濃においては(遠山氏が織田氏の縁戚となるなど元々織田氏の影響力が強い地域であったが)、有力領主である市橋氏丸毛氏、高木氏などが織田氏に通じるようになる。

永禄8年(1565年)には、織田家に降った加治田城主・佐藤忠能により、堂洞城主の岸信周が討たれた。この時、関城主であり、国内の押さえとなっていた大叔父の長井道利も織田家の武将となっていた斎藤利治に敗れ、中濃地方も信長の勢力圏に入った(中濃攻略戦)。

11月13日には、足利将軍家一色藤長にあてて、代初の儀について太刀一腰と馬一疋を祝言に贈っている[4]

永禄10年(1567年)、西美濃三人衆の稲葉良通氏家直元、安藤守就らが信長に内応した為、遂に稲葉山城を信長によって落とされ(稲葉山城の戦い)、8月15日、城下の木曽川を船で下り、北伊勢長島へと退散した[5]。その為、龍興を追って織田軍が長島に攻め寄せている。当時20歳。以降、再び大名として美濃に返り咲くことはなかった。

織田への反抗 編集

長島に亡命した龍興は、元亀元年(1570年)に始まる長島一向一揆に長井道利と共に参加し、信長に対する抵抗活動は継続した。その後伊勢から畿内へ移り、永禄12年(1569年)1月には三好三人衆と結託し、信長が擁立した室町幕府第15代将軍足利義昭を攻め殺そうとしたが、敗退している(本圀寺の変、六条合戦)。更に同じ元亀元年(1570年)8月には、三好康長安宅信康十河存保石山本願寺法主顕如らとともに三好三人衆の籠城を支援(野田城・福島城の戦い)。信長が朝倉義景、浅井長政に後背を脅かされ、退却するまで持ちこたえた。

最期 編集

その後、縁戚関係にあったことから越前国の朝倉義景の下へ逃れて保護された。いわゆる客将として遇されたとも伝わる。

元亀2年(1571年)8月、顕如は一色式部大輔(=龍興)に充てて書状を送り、「御本意」実現を願って黄金と太刀を贈っている[6]。また、翌元亀3年(1572年)8月に美濃郡上郡安養寺乗了と越前大野郡最勝寺専勝から、本願寺の坊官である下間頼旦に対して、本願寺から郡上郡と大野郡の門徒に協力を命じた”「一色殿」の入国計画”の進行状況に関する書状が残されている。それより少し前の同年正月には、「一色義紀」と称していた龍興から乗了に対して、専勝が遠藤氏を説得し、また自分も日根野弘就を長島に派遣する予定であったが、専勝の病気で計画が延期になってしまったとする書状が残されている[7]

これらの文書から、朝倉氏や越前・美濃の門徒の支援を受けた龍興が北(越前)から、長島の門徒の支援を受けた日根野が南(伊勢)から、美濃に入国・挟撃する計画が存在したことが分かり、同年冬には実際に作戦が実行されたことを示唆する顕如の書状[8]が存在する。しかし朝倉軍が雪のために全軍を越前に引き上げたこともあって、龍興も美濃国奪取・復帰までには至らず、同じく越前に引き上げたと見られている[3]

天正元年(1573年)8月、義景が浅井長政を支援し、信長と対決するために近江国北部に出陣した際に龍興も従軍したが、8月14日、朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰坂で追撃を受けた際、戦死した(刀禰坂の戦いの項目参照)[9]

一説によると、かつての重臣であった氏家直元の嫡男・氏家直昌に斬られたとされている。享年26または27。

法名は瑞雲庵竜興居士とされるが、『常在寺記録』には瑞光院竜淵宗雲日珠大居士と号したとある[9]

生存説 編集

本願寺勢力と結びついた、いわゆる「生存説」がいくつかある。

越中の九右ェ門 編集

興国寺富山市)の伝説によると、龍興は戦死してはおらず、家宝系図を持って永禄12年(1569年)、3月に越中国新川郡布市村に来て、興国寺に隠れた。天下の情勢から家を再興する事かなわずと悟った龍興は、九右ェ門と改名し、付近の原野を開拓した。開拓に当たって、「の力である、お経の力なり」と一族を励ましてこの地に住みついた。

信長と本願寺の石山合戦が終わった天正8年(1580年)に九右ェ門はこの地を経力村と名づけた。

江戸時代に入った慶長16年(1611年)、九右ェ門は家督を子に譲り、草高を持参して布市興国寺で出家住持となった。興国寺には、龍興が持参したという念持仏(木造阿弥陀如来立像)が伝えられている。

寛永9年(1632年)6月19日に示寂し、墓は富山市経力の本誓寺の前にあるという。享年86(若しくは享年85)。

九右ェ門の子孫は、文政3年(1820年)11月、越中国新川郡大泉村(現・富山市大泉)に移り、後に大正2年(1913年)11月、富山県新川郡堀川村小泉(富山市堀川小泉)に転住したという。

羽島の伝承 編集

刀根坂の戦いを落ち延び、本願寺と合流したとする伝承がある。龍興は石山本願寺に逃れ、本願寺勢力と共に再起を期していたが、現在の岐阜県羽島市足近町の寺で病死した、とされる。同地の願教寺には、龍興の墓と、その父である義龍、さらに龍興の子とされる小兵衛義仁の位牌が伝えられている。

人物・逸話 編集

  • 父の義龍が祖父の道三に謀反を起こした際、義龍はその母方の一色姓を称したというが、龍興自身も一色姓を用いていた。木下聡は(織田信長が一色姓への改称を完全に無視したこともあり)「一色」名義で記された多くの龍興関係の史料が認識されていないと指摘している[3]。また、美濃国主時代には足利将軍家より偏諱を受けて「義棟」を名乗っている。
  • 斎藤氏以来の家臣団を一色氏の家臣団の名字に改名させた。(日根野弘就が一色氏守護代の延永氏を名乗るなど)
  • 前述の越中(富山県)に土着した説と関連して、富山市には九右エ門(龍興)が鶴に教えられて開いたとする由来を持つ鉱泉があり「霊鶴源泉」と称している。経力の湯といって長年続き、のちに浦上四番崩れで捕らえられた隠れキリシタンが預けられた、などの歴史がある。大正6年(1917年)に廃業し、霊鶴鉱泉に祀られていた木造薬師如来像は現在、本誓寺(富山市経力)に安置されている。富山藩第9代藩主・前田利幹が所蔵していたとされる、経力の湯の冬景色を描いた図が石川県金沢市に伝わる。
  • 龍興は畿内在住時、キリシタンを目指した。その記録が幾つか残っている。
    • ルイス・フロイスからキリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に教会へ姿を現した際にはその全てを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来たといい、教会の信者達はとても驚いたそうである。
    • ガスパル・ヴィレラに対して「人間がデウスによって祝福され、万物の霊長であると保障されて居ると師は言う。ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか。こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか」と質問した。ヴィレラは龍興の疑問に対し、その全てに納得がいく様な道理を上げて説明したと記録されている。
  • ルイス・フロイスは『日本史』に龍興について、「非常に有能で思慮深い」と記録している。 ※上記ルイス フロイス「日本史」の記述は龍興の義弟にあたる若者の事。

登場作品 編集

脚注 編集

  1. ^ 『美濃国諸旧記』より
  2. ^ 『武家事紀』より
  3. ^ a b c 木下聡「元亀年間の斎藤龍興の動向」『戦国史研究』76号、2016年。 
  4. ^ 桑田 1973, p. 216.
  5. ^ 桑田 1973, p. 214.
  6. ^ 元亀2年8月23日付「顕如御書留」『大系真宗史料文書記録編4』43号
  7. ^ 「岐阜県立図書館所蔵文書」『岐阜県史資料編古代・中世補遺』8号
  8. ^ 天正元年正月27日付「顕如御書留」『大系真宗史料文書記録編4』84号
  9. ^ a b 桑田 1973, p. 215.
  10. ^ 信長戦記リイド社(2019年10月14日閲覧)

参考文献 編集

  • 桑田忠親『斉藤道三』新人物往来社、1973年。 

関連項目 編集