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刺賀 長信(さすか ながのぶ)は、戦国時代武将刺賀城主・山吹城代。小笠原長雄の叔父であり、湯惟宗の義兄にあたる。

 
刺賀長信
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 弘治2年(1556年)9月
官位 治部少輔
主君 大内義隆義長毛利元就
氏族 石見小笠原氏刺賀氏
父母 父:小笠原長隆
兄弟 小笠原長徳君谷長晴
小笠原長国(甘南備寺昌章)長信
小笠原長実小笠原長相
山名式部少輔
小太郎、弥太郎、吉信
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生涯編集

石見小笠原氏12代当主・小笠原長隆の四男として誕生。石見国安濃郡刺賀郷[1]を本拠とする国人・刺賀氏の養子となった。

天文12年(1543年)7月、第一次月山富田城の戦いで大敗し勢力を石見から後退させた大内氏を追撃する形で尼子晴久が石見銀山を奪取し、これを石見小笠原氏との共同経営としている。長信自身も尼子氏方として山吹城に一時在城している。

天文22年(1553年4月5日には、大内義長から石見阿濃郡刺賀郷の500貫の地と、同国邇摩郡重富村の40貫の地などを安堵された。なお、これ以前にも知行安堵の證文を与えられていたが、山吹城において焼失していたため、当知行に任せて改めて長信に領掌を認めている。

弘治2年(1556年)には毛利氏へ帰順し、同年6月26日に毛利元就と隆元は連署の書状を与えて長信の帰順を認めた。しかし、毛利氏が防長経略により大内氏の本領である周防国へと侵攻している隙を見計らい、晴久は出兵中だった備前国から素早く撤兵させた25,000の大軍を率いて石見へと侵攻し、これに反撃に出た宍戸隆家率いる7,000の毛利軍は大敗(忍原崩れ)を喫した。更には後援の吉川元春も尼子軍の抵抗に手こずり、元就の命に従って山吹城に籠城する長信らも包囲されて孤立。尼子軍によって毛利氏からの兵粮も止められ、山吹城内の将兵は飢えに苦しんだため、長信は義弟の湯惟宗を通じて、長信の自害と引き換えに山吹城の城兵は安芸国吉田郡山城の毛利元就の下へ送還することを要求する。晴久はこれを認め、長信は副将の高畠遠言と共に湯惟宗によって温泉津海蔵寺に護送され、晴久の派遣した検使の前で切腹した。なお、尼子氏の手に落ちた山吹城には本城常光が入った。

脚注編集

  1. ^ 現在の島根県大田市久手町刺鹿。

出典編集