勧修寺尚顕

戦国時代の公家 (1478-1559)

勧修寺 尚顕(かじゅうじ ひさあき)は、戦国時代公家公卿)。

 
勧修寺尚顕
時代 戦国時代
生誕 文明10年(1478年
死没 永禄2年8月28日1559年9月29日
改名 尚顕→泰龍→栄空
官位 正二位権大納言
主君 後土御門天皇後柏原天皇後奈良天皇
氏族 勧修寺家
父母 父:勧修寺政顕、養父:勧修寺経熈
兄弟 尚顕顕量畠山家俊室、澄祝室、広橋兼秀室、畠山義総室、国子経熈
澄清の娘
尹豊三条公頼室、粟屋元隆室、尚子
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本姓藤原氏家系藤原北家高藤流甘露寺支流である勧修寺家の11代当主。堂上家のひとつで家格名家官位は、正二位権大納言

経歴

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権中納言であった第9代当主・勧修寺政顕の実子。室町幕府第9代将軍足利義尚偏諱を受け、尚顕と名乗る。 室は石清水八幡宮検校澄清の娘。実子に内大臣勧修寺尹豊左大臣三条公頼の室、左京亮粟屋元隆(はじめ住吉大社宮司国賢)の室、典侍勧修寺尚子などがいる。

永正5年(1508年)1月5日、任参議

天文元年(1532年)、義弟で能登守護 畠山氏当主 修理大夫畠山義総を頼りに動乱の京を離れ、能登国(もしくは加賀国)にて出家した。 法名は、泰龍、のち改め、栄空

系譜

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関連項目

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