北村優子

日本の歌手、女優、タレント (1959-)

北村 優子(きたむら ゆうこ、本名西川 優子(旧姓熊谷[1])、1959年12月27日 - )は、日本の元女性アイドル歌手女優タレント

北村優子
出生名 熊谷優子
別名 西川優子(本名)
生誕 (1959-12-27) 1959年12月27日(64歳)
出身地 日本の旗 日本北海道札幌市
学歴 堀越高校
職業 歌手、女優、タレント
活動期間 1974年 - 1980年
レーベル ビクター
事務所 新栄プロダクション

北海道札幌市豊平区(現在の清田区)真栄出身[1][2]堀越高等学校卒業。現役時代の所属事務所は新栄プロダクション。血液型はAB型。デビュー時は身長158cm、体重47kg(B81・W60・H86)。

来歴 編集

一人っ子[1]。幼少時代は内気な性格だったが、家の中ではマットレスをステージにして、歌を歌ったりお芝居をしたりしてよく遊んでいたという[1]札幌市立曙小学校札幌市立中島中学校を経て、1975年3月札幌市立清田中学校卒業(27期生)[1]

清田中学校に転校した中学3年の二学期(1974年)、テレビで日本テレビスター誕生!』の札幌大会の応募者を募集していたのを見て、親を説得して応募、同年9月の同大会で優勝[1]。同年12月の第12回決戦大会(全国大会)でもグランドチャンピオンに輝く[1]。中学卒業後上京、堀越高等学校に通う傍ら1年間本格的な歌のレッスンを積み、1976年3月、ビクターからシングル「若草のデート」で歌手デビュー[1]。芸名は本名の熊谷だと熊を連想させるので北海道出身なので北村に変えた[3]。以降「ハロー・サンシャイン」「ジェラシー」などをリリース。

デビュー2年目の1977年初めに「過敏性大腸症候群」を患って約半年間入院・療養生活を送り、同年8月に復帰[4]

またアイドルタレントとしてテレビドラマ・CM・雑誌グラビアなどに数多く登場し、キュートな顔立ちで人気があった。

1980年に所属事務所の役員(当時)の息子と結婚し、芸能界を引退[5]。なお、それまでは所属事務所の専務の家に在住していた[6]。 また、歌手の山田太郎プロゴルファー西川哲は夫の従兄弟にあたる。

人物 編集

ディスコグラフィー 編集

シングル 編集

  1. 若草のデート (作詞:阿久悠、作曲:森田公一、編曲:柳田ヒロ萩田光雄 (1976年2月25日)
    (c/w) 学園祭  SV-1281
  2. ハロー・サンシャイン (作詞:松本隆、作曲・編曲:穂口雄右) (1976年7月5日)
    (c/w) 口笛ふいて  SV-6028
  3. ジェラシー (作詞:松本隆、作曲・編曲:穂口雄右) (1976年10月25日)
    (c/w) ハッスルしないで男の子  SV-6118
  4. 999粒の涙 (作詞:牧亜矢、作曲・編曲:高田弘) (1977年3月25日)
    (c/w) ツイスト・レディ  SV-6188

アルバム 編集

ゴールデン☆ベスト 北村優子・目黒ひとみしのづかまゆみ (2009年9月16日)

シングルA面B面全8曲収録   VICL-63460

出演 編集

テレビ番組 編集

テレビドラマ 編集

テレビアニメ 編集

CM 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 近代映画』1976年4月号、124-127ページ。
  2. ^ 「若草のデート」ジャケット裏面
  3. ^ 「スターの芸名はどうして作られたの 芸名をつけたエピソード」『近代映画』1976年10月号、近代映画社、168頁。 
  4. ^ 明星』1977年9月号、166ページ。
  5. ^ 「週刊平凡」1980年7月12日号、30頁。
  6. ^ 明星1976年8月号67頁
  7. ^ 藤谷美和子『ふんわり』ワニブックス、1984年、34ページ。

参考文献 編集

  • 「歌謡曲名曲名盤ガイド 1970's」 シンコーミュージック、2005年11月