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原口初太郎

原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年1月29日 - 昭和24年(1949年4月30日)は、日本の陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将衆議院議員貴族院議員玄洋社社員[1]

経歴編集

福岡県糟屋郡青柳村に、旧福岡藩士・常岡藤三の二男として生れ、原口幸一の養子となる。福岡県立尋常中学修猷館を経て、1896年11月、陸軍士官学校(8期)を卒業、優等生として恩賜品を授与されている。同期には林銑十郎がいる。

1897年陸軍砲兵少尉となるが、陸軍砲工学校高等科を卒業後、1902年8月、陸軍大学校(19期)に入学。在学中に日露戦争に従軍したため、卒業したのは1907年11月となる。成績は優等であり、恩賜の軍刀が授与されている。同期には、荒木貞夫阿部信行真崎甚三郎がいる。

1911年11月、イギリス大使館附武官補佐官に任命される。この頃、在英国大使館には同じ修猷館出身の参事官山座円次郎、二等書記官広田弘毅大蔵省専売局書記富田勇太郎がおり、夜ごと山座の部屋に集っては、博多弁丸出しの談論風発で親交を深めている[2]

帰国後、1914年日独戦争において、青島守備軍参謀として青島攻囲軍に参加(青島の戦い)し、帰還後、1917年8月、陸軍砲兵大佐となり野砲兵第17連隊長を務める。1918年11月、参謀本部欧米課長に就任し、シベリア出兵において福田雅太郎参謀長に従って2度シベリアに赴き、参謀本部シベリア主任として画策する。

1921年7月、陸軍少将に昇格してアメリカ大使館附武官として渡米し、ワシントン会議に随員として出席。この時に見たアメリカの巨大な工業力に衝撃を受け、以後、対米非戦論者となっている。

1925年5月、野戦重砲兵第4旅団長を経て、1926年3月、陸軍中将に昇格し陸軍野戦砲兵学校長に就任。その後、1927年7月、陸軍砲工学校長、1928年5月、第5師団長を歴任する。1930年8月、予備役となる。

1932年2月、第18回衆議院議員総選挙において当選し、以後当選4回。衆議院議員在任中は、大政翼賛会に反対する急先鋒となり、反対代議士の座長となって奮闘した。このため、時の陸軍大臣東條英機の逆鱗に触れ、東條は「原口を剥官せねばならぬ」と息巻いたほどであった。1942年4月、第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦なしで立候補し、落選した。

戦後、1945年12月、貴族院勅撰議員に任命され、1946年7月3日まで在任した[3]。その後、公職追放を受けた[4]。追放中の1949年に死去した。

脚注編集

  1. ^ 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、玄洋社社員名簿53頁。
  2. ^ 長谷川峻『山座圓次郎-大陸外交の先駆-』(時事通信社、1967年)より。
  3. ^ 『官報』第5847号、昭和21年7月12日。
  4. ^ 公職追放の該当事項は「正規陸軍将校」。(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、91頁。NDLJP:1276156