受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 1979年9月21日)は、昭和期の政治家衆議院議員(12期)。

経歴 編集

山口県大島郡大島町(現周防大島町)出身。日本大学法科卒業。青年学校長、中学校校長、山口県教職員組合副委員長を経て政界入り。無所属、日本社会党(左右分裂時は右派社会党)を経て民社党結成に参加し、党中央執行委員や国会議員団長を務めた。

1963年8月、大島町公民館建設資金として10万円寄付により1964年4月18日紺綬褒章受章[1][2]

1979年、体調を崩し、声が出なくなる病に倒れたため引退を表明し、後継者に受田の元秘書で山口県議会議員の部谷孝之を指名。同年9月21日、肺癌のため茨城県新治郡桜村筑波大学附属病院で死去、69歳[3]。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、従七位から正三位に叙される[4][5]

部谷は第35回衆議院議員総選挙に当選して受田の議席を継承した。

人物 編集

  • 選挙巧者でも知られ、東京から地元に帰るときも選挙区(旧山口2区)の入り口の岩国駅特急からわざわざ各駅停車に乗り換え、相席になった人に「衆議院議員の受田です」とあいさつして気さくに話し込み、支持者を増やすほどだった。
  • 実弟の受田兵吉は大島町議を長く務めた。元秘書の王田威博も大島町議を2期務めた。

国政選挙歴 編集

著書 編集

  • 『白道をゆく 自叙伝』東洋図書出版 1979年

脚注 編集

  1. ^ 『白道をゆく 自叙伝』393頁
  2. ^ 『官報』第11204号17-22頁 昭和39年4月21日号
  3. ^ 『民社党史 本篇』271頁 1994年 民社党史刊行委員会
  4. ^ 『白道をゆく 自叙伝』401頁
  5. ^ 『官報』第15809号12-13頁 昭和54年9月28日号
議会
先代
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1954年 - 1955年
次代
廃止