吉士長丹
飛鳥時代の豪族
吉士 長丹(きし の ながに/ちょうたん)は、飛鳥時代の豪族。呉 長丹(くれ の ながに)とも表記される。冠位は小花下。
『有職図譜』より | |
時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 呉長丹 |
官位 | 小花下 |
主君 | 孝徳天皇 |
氏族 | 吉士→呉氏 |
出自
編集→詳細は「吉士」を参照
「吉士」は元来、古代朝鮮における「首長」を意味する言葉から生まれた姓であり、転じて氏に変わったものであるが、さらに遡ると中国周人の出自である[1]。一族は外交事務で多く活躍している。『新撰姓氏録』では、吉志氏は「摂津国皇別」に分類され、「難波忌寸同祖,大彦命之後也」となっている。本拠地は摂津嶋下郡吉志部村(現在の大阪府吹田市岸部町)とされている。
記録
編集白雉4年(653年)、遣唐第1船の大使として計121人を率いて唐へと出発する。このときの位は小山上で、副使は吉士駒であった。同行の学問僧には、道観(のちの粟田真人)、道昭、定恵(中臣鎌足の長男)らがいた[2]。
翌年7月、百済・新羅の送使と共に筑紫国に到着する。このときは「西海使」(にしのみちのつかい)と『日本書紀』巻第二十五には記されている[3]。その後に、
是(こ)の月に、西海使(にしのうみのつかひ)等(ら)が、唐国(もろこし)の天子(みかど)に奏対(まうむか)ひて、多(さは)に文書(ふみ)・宝物(たからもの)得(え)たるを褒美(ほ)めて、
小花下の位に昇叙され、封戸200戸を与えられた。また、氏を賜って、呉氏(くれのうじ)となった[4]。恐らく、「呉」を経由して長安に辿り着いたからであろうと、岸俊男は述べている。このことから、南島路をとったものと推定される。