吉村寅太郎 (教育者)

日本の教育者・官僚

吉村 寅太郎(よしむら とらたろう、弘化5年2月5日1848年3月9日) - 大正6年(1917年1月14日[1])は、日本教育者

吉村 寅太郎
誕生 (1848-03-09) 1848年3月9日弘化5年2月5日
但馬国城崎郡豊岡(現・兵庫県豊岡市
死没 (1917-01-14) 1917年1月14日(68歳没)
東京府東京市赤坂区青山(現・東京都港区
墓地 谷中霊園(東京都台東区谷中
職業 教育者官吏
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 慶應義塾
代表作 『日本現時教育』(1898年)
配偶者 みね(市川兼恭五女)
子供 みわ(長女・塚田逢二郎妻)、寛二(息子)、みち(四女・長谷川彊妻)、毅四郎(四男)
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吉村寅太郎

経歴

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但馬国豊岡兵庫県豊岡市)出身[2]1869年明治2年)から4年間慶應義塾で英学を学んだ。1873年(明治6年)、文部省に出仕し、広島外国語学校校長、広島英語学校長、広島県英学校長、広島県師範学校校長、広島県医学校長、広島県博物館長などを務めた。1879年(明治12年)からは文部一等属、文部省御用掛、同権少書記官、太政官御用掛、文部省視学官、同参事官を歴任。1887年(明治20年)、第二高等中学校(のち第二高等学校)校長に就任した。1897年(明治30年)に退官した後は、成女学校を創設し、校長に就任した。その他、東京女学館長、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)校長を務めた[2]

1902年(明治35年)、第四高等学校校長に起用された。1911年(明治44年)に退官し、1916年(大正5年)に第四高等学校名誉教授の称号を得た。翌1917年(大正6年)1月、東京青山の自邸にて胃癌で療養中に死去。70歳。『サア逸話らしいものは一つも無い人です(中略)夫れも教壇に立って講義する側ではなく、矢張り校長として校務を掌理して行くべき人物と申すほうが適当でせう』との当時の四高時代の浦井教授談がある[3]

栄典

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著作

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著書
訳書

脚注

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  1. ^ 『明治時代史大辞典 3』。なお『官報』は叙勲が行われた1月15日死去と発表している(『官報』第1335号、1917年1月17日、257頁)。
  2. ^ a b 『豊岡誌 巻中』。
  3. ^ 「吉村寅太郎氏逝去」『石川教育』155号(大正6年2月号)pp.30-31 国立国会図書館レファレンス協同データベース
  4. ^ 『官報』第3318号「叙任及辞令」1894年7月21日。

参考文献

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関連文献

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  • 吉村寅太郎」(内尾直二編輯 『第三版 人事興信録』 人事興信所、1911年4月)
  • 宿南保著 『明治期郷土出身文教の偉人群 浜尾新』 吉田学院、1992年2月
  • 吉家定夫 「豊岡藩と慶応義塾」(『近代日本研究』第17巻、慶応義塾福沢研究センター、2001年3月、NAID 120005347352
  • 「吉村寅太郎」(慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月)

外部リンク

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公職
先代
(新設)
広島県中学校
1877年 - 1878年
広島県英語学校長
1877年

  広島英語学校
1875年 - 1877年
広島外国語学校長
1874年 - 1875年
次代
矢部善蔵
先代
岩本元行
広島県師範学校長
1877年 - 1878年
次代
矢部善蔵
その他の役職
先代
(新設)
成女学校
1899年 - 1903年
次代
山根正次
先代
辻新次
東京女学館
1898年 - 1899年
次代
土方久元