吹田愰
吹田 愰(ふきだ あきら、1927年〈昭和2年〉2月1日 - 2017年〈平成29年〉6月19日)は、日本の政治家。
吹田 愰 ふきだ あきら | |
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生年月日 | 1927年2月1日 |
出生地 | 山口県熊毛郡城南村 |
没年月日 | 2017年6月19日(90歳没) |
死没地 | 東京都千代田区 |
出身校 | 旧制柳井商業学校中退 |
前職 | 山口県議会議員 |
所属政党 |
(自由民主党→) (新生党→) (新進党→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 |
勲一等瑞宝章 田布施町名誉町民 |
親族 | 西村康稔(娘婿) |
内閣 | 第2次海部改造内閣 |
在任期間 | 1990年12月29日 - 1991年11月5日 |
選挙区 | 旧山口県第2区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1979年10月7日 - 1996年7月18日 |
山口県議会議長 | |
山口県議会議員 | |
田布施町長 |
衆議院議員(6期)、自治大臣(第41代)、国家公安委員会委員長(第51代)、山口県議会議員(4期)、山口県議会議長、田布施町長、 山口県熊毛郡城南村長を歴任した。
来歴・人物
編集山口県熊毛郡城南村(現田布施町)生まれ。旧制柳井商業学校(現山口県立柳井商工高等学校)中退後、甲種飛行予科練習生防府海軍通信学校に入隊した[1][2][3]。終戦後は城南村の青年団長を勤め、1948年(昭和23年)ごろに戦犯として郷里に戻った岸信介に講演を依頼した。これをきっかけとして岸との交流を深め[4]、また、敗戦後の岸の政界復帰に尽力した。
1952年(昭和27年)、岸より選挙資金の提供を受けて25歳で城南村長に当選した[5]。吹田は岸の弟の佐藤栄作が衆院選に立候補してからは当初は佐藤を支援したが、岸の出馬に際して岸を支援するため佐藤に断りを入れている[4]。1955年(昭和30年)、新設合併に伴い田布施町長選に出馬して当選し[6]、田布施町長を3期務める。その後山口県議会議員選挙に転じ、県議会議長も務めた。県議時代も一貫して岸に師事し、岸の引退に際しては後継指名を受ける。
1979年(昭和54年)、第35回衆議院議員総選挙に旧山口県第2区から自由民主党公認で立候補し、当選(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・宮下創平・船田元など)。岸派の流れを汲む清和政策研究会に所属し、岸の娘婿である安倍晋太郎の首相就任に執念を燃やした(しかし、安倍は首相就任が叶わないまま病没)。1990年(平成2年)、第2次海部改造内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長として初入閣した。
安倍晋太郎の死後、安倍派では派閥後継者を巡って三塚博と加藤六月が熾烈な主導権争いを繰り広げ(三六戦争)、1991年(平成3年)6月に三塚が会長に就任して三塚派に代替わりし、加藤は除名される。加藤を領袖にすべく、多数派工作に奔走していた吹田は三塚派を退会し、田名部匡省、倉田寛之、山岡賢次らと政眞会(加藤グループ)を結成する。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙では、自民党に党籍を残しながら無所属で出馬し、当選。その後自民党を離党し、1994年(平成6年)に新生党に入党。同年12月の新進党結党にも参加する。
衆議院議員任期途中の1996年(平成8年)、同年8月4日執行の山口県知事選挙に非自民勢力の支援を受けて立候補(告示日の同年7月18日付で公職選挙法の規定により衆議院議員を退職(自動失職))するも、自民党山口県連の推薦を受けた二井関成に敗れた。元自治官僚の二井は、同じ自治省出身の平井龍山口県知事の下、5期20年にわたる平井県政で要職を歴任していたが、6期目の立候補を模索する平井の意向に背いて二井が立候補したため、平井は自民党員でありながら吹田を支持。野中広務自民党幹事長代理も党本部による二井の推薦に反対したため県連の推薦に留まったが、清和政策研究会の塩川正十郎自由民主党総務会長や安倍晋三(安倍晋太郎の次男)、河村建夫らは二井を支援した。知事選落選後は自民党に復党し、2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙に比例中国ブロック単独で立候補したが国政復帰は果たせず、政界から引退した。2013年(平成25年)の第23回参議院議員通常選挙では自民党の北村経夫を支援した[7]。
政界には吹田の秘書経験者が多く、結束は吹田の引退後も強い。主な元秘書には山口県岩国市長で元衆議院議員の福田良彦や、山口県議会議員の守田宗治、山口市議会議員の俵田祐児らがいる。
栄典
編集著書
編集- 『未来に翔ける : 政策現場からのレポート』出版開発社、1986年。ISBN 4879680206。
脚注
編集- ^ 「阿多田交流館への寄贈」(PDF)『広報ひらお 平成25年12月号』、平生町、2013年12月、11頁、 オリジナルの2014年5月2日時点におけるアーカイブ、2014年4月30日閲覧。
- ^ 「甲飛防通会が記念碑を見学」(PDF)『ほうふ南新聞』、周防会、2011年9月1日、3頁、 オリジナルの2013年1月29日時点におけるアーカイブ、2014年4月30日閲覧。
- ^ “吹田愰氏が死去 自治相など歴任、90歳 田布施出身”. 山口新聞. (2017年6月20日). オリジナルの2017年6月21日時点におけるアーカイブ。 2017年6月21日閲覧。
- ^ a b 福家司 (2010年5月23日). “〈宰相の郷から:中〉岸支援 青年講話が縁”. asahi.com (朝日新聞社). オリジナルの2017年6月19日時点におけるアーカイブ。 2017年6月20日閲覧。
- ^ 福家司 (2010年5月25日). “〈宰相の郷から:下〉自民競い合い 力の源”. asahi.com (朝日新聞社). オリジナルの2017年6月20日時点におけるアーカイブ。 2017年6月20日閲覧。
- ^ “田布施町の歩み”. 田布施町ホームページ. 2017年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月30日閲覧。
- ^ “「身が引き締まる思い」比例区初当選の自民・北村氏が報告会”. 山口新聞. (2013年7月23日). オリジナルの2014年4月30日時点におけるアーカイブ。 2014年4月30日閲覧。
- ^ “第2次安倍内閣ネット選挙力リサーチ Vol.19”. ネット選挙ドットコム (2013年2月27日). 2014年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月30日閲覧。
- ^ “水土里ネット山口役員名簿”. 山口県土地改良事業団体連合会. 2017年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月30日閲覧。
- ^ “元自治相の吹田氏が死去 90歳、肺炎で”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. (2017年6月20日). オリジナルの2017年6月20日時点におけるアーカイブ。 2017年6月20日閲覧。
- ^ “元自治相の吹田氏が死去”. NHKオンライン. (2017年6月19日). オリジナルの2017年6月19日時点におけるアーカイブ。 2017年6月20日閲覧。
- ^ “元衆院議員の吹田氏死去 90歳”. 中國新聞アルファ (中国新聞社). (2017年6月20日). オリジナルの2017年6月21日時点におけるアーカイブ。 2017年6月21日閲覧。
- ^ 「2000年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』2000年11月3日朝刊
- ^ 『田布施町名誉町民に吹田愰氏を推戴』(PDF)(プレスリリース)田布施町、2015年11月15日 。2017年6月20日閲覧。
関連項目
編集公職 | ||
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先代 奥田敬和 |
自治大臣 第42代 : 1990年 - 1991年 |
次代 塩川正十郎 |
先代 奥田敬和 |
国家公安委員会委員長 第51代 : 1990年 - 1991年 |
次代 塩川正十郎 |
先代 新町発足 |
田布施町長 初代 : 1955年 - 1962年 |
次代 弘中辰夫 |
議会 | ||
先代 神田厚 |
衆議院安全保障委員長 1996年 |
次代 松岡満寿男 |
先代 玉生孝久 |
衆議院内閣委員長 1989年 |
次代 岸田文武 |
先代 林大幹 |
衆議院環境委員長 1987年 - 1988年 |
次代 菊池福治郎 |
先代 田辺孝三 |
山口県議会議長 第42・43代:1975年 - 1979年 |
次代 貞兼一 |