国中公麻呂
国中 公麻呂 (くになか の きみまろ)は、奈良時代の仏師・貴族。姓は国(無姓)のち国中連。名は君麻呂・公万呂とも記される。百済系渡来人である完了(徳率)・国骨富の孫とされる。官位は従四位下・造東大寺次官。
時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 宝亀5年10月3日(774年11月11日) |
別名 | 君麻呂、公万呂 |
官位 | 従四位下・造東大寺次官 |
主君 | 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇 |
氏族 | 国(無姓)→国中連 |
経歴編集
祖父・国骨富は徳率の位にまで昇った百済の高官であったが、天智天皇2年(663年)白村江の戦い後まもなく百済が滅亡したため日本に帰化した。
天平17年(745年)正七位下より外従五位下に昇叙される。翌天平18年(746年)造仏長官に任ぜられ、東大寺盧遮那仏の造像と大仏殿建立の指揮を執る。天平20年(748年)従五位下、天平勝宝元年(749年)には聖武天皇の大仏殿行幸に際して従五位上に昇叙される。
天平宝字2年(758年)東大寺大仏殿竣工。大和国葛下郡国中村に居住していたことにより、国中連姓を賜与される。 天平宝字5年(761年)正五位下・造東大寺次官に叙任され、のち法華寺浄土院・香山薬師寺・石山寺の造営に参画する。天平神護3年(767年)東大寺主要伽藍の完成を祝した称徳天皇の東大寺行幸に際して従四位下に叙される。神護景雲2年(768年)但馬員外介に転任。
人物編集
聖武天皇が作ろうとした盧舎那仏は高さ5丈(約15メートル)と巨大なものであり、当時の鋳工たちの中で敢えて鋳造に挑む者はいなかったが、公麻呂は非常に優れた技術と思慮により、盧舎那仏の建造を成し遂げたという[1]。
主な作品編集
確実な公麻呂作品は存在しないが、東大寺盧舎那仏像のほか、東大寺戒壇院四天王立像、東大寺法華堂の不空羂索観音像などの乾漆諸像や、新薬師寺十二神将像の製作に関わったと推定されている。
官歴編集
『続日本紀』による。
脚注編集
参考文献編集
- 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年