国際プロレスプロモーション
歴史編集
SWS解散後、NOWに所属していた元国際プロレス所属選手の鶴見五郎は、第1次NOW崩壊後、高杉正彦や関係者と共に1993年にインディー団体統括組織「レスリング・ユニオン」を設立と同時に傘下団体「IWA格闘志塾(アイ・ダブリュー・エーかくとうしじゅく)」を設立。その後、レスリング・ユニオンは解散したが、IWAの名前は高杉が設立したIWA湘南(現:湘南プロレス)と同様しばらく付けたままであった。ただし同時期に設立されて同じくIWAを冠していたI.W.A.JAPANはレスリング・ユニオンに加わっておらず無関係であった。
高杉の地元横浜市鶴見区や鶴見の地元神奈川県茅ヶ崎市を中心に、鶴見青果市場、茅ヶ崎青果市場、新大津スイミングクラブの小規模会場での興行を主として、マスクを付けた怪奇派キャラクターレスラーを登場させていた。フリー選手の他に鶴見が経営している鶴見五郎トレーニングジムでプロレスラーを養成してリングに上げるスタイルをとっており、奥村茂雄、高木三四郎、佐野直らは鶴見五郎トレーニングジム出身である。
1997年5月11日の興行を最後に団体名をIWA格闘志塾から国際プロレスプロモーションに改称し、国際プロレスの王座であったIWA世界ヘビー級王座、IWA世界タッグ王座、IWA世界ミッドヘビー級王座を復活させた。なお命名及び王座の復活にあたっては、国際プロレス創業者の吉原功の遺族の許可を得ている。団体名の「プロモーション」は各雑誌が付加したものであり、現在は国際プロレスを正式名称としていることをTwitterで明らかにしている。代表は鶴見の息子である田中ゆうにが就任(「鶴見の息子」を名乗るエル・イホ・デル・ゴローとゴロー・ジュニアとはいずれも別人)。
小規模ながらも息の長い興行を続けてきたが、神奈川県茅ヶ崎市の鶴見五郎トレーニングジムからリングを運搬していた中古2tトラックが、2004年12月、首都圏のディーゼル車排ガス規制(自動車NOx・PM法)に抵触。DPF(粒子状物質減少装置)を付けたり買い換えたりする資金がなかったため、定期的に開催していた鶴見青果市場での興行を中止することになった[1]。
その後、東京都で興行を開催したが、2006年に鶴見が引退を表明してセミリタイア状態となったことから2007年5月を最後に興行は休止に入っていた。なお国際プロレスプロモーションで行われていた「IWA定期戦」はレフェリーのアイアンマン西田が引き継いで頑固プロレスで行われている。
2011年9月24日、約4年ぶりに横浜赤レンガ倉庫1号館で興行を開催。鶴見もメインイベントに出場。
2013年4月20日、約1年半ぶりに茅ヶ崎青果市場で興行を開催[2]。8月22日、新宿FACEにおいて、DDTプロレスリングとプロレスリングFREEDOMSの全面協力による「国際プロレス最終章 ワンスアゲイン」と題して、鶴見の引退試合も兼ねた最終興行を開催して一区切りを付けた[3]。
タイトル編集
- トーナメント戦
所属選手編集
過去の所属選手編集
脚注編集
- ^ 国際プロレス:排ガス規制に勝てず 運搬トラックの浄化装置資金なく、横浜から姿消す 毎日新聞(2005年6月18日)
- ^ マスクドひろよん参戦情報 松本浩代の破壊日記 2013年3月12日
- ^ 2013年8月22日 国際プロレス 鶴見五郎最後の闘い. 国際プロレスプロモーションのYouTubeチャンネル. (2013年5月28日). 該当時間: 1:19 2013年5月30日閲覧。