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高杉 正彦(たかすぎ まさひこ、1955年6月17日 - )は、日本プロレスラー神奈川県平塚市出身。

高杉 正彦
高杉 正彦の画像
プロフィール
リングネーム 高杉 正彦
ウルトラセブン
スーパーセブン
本名 高杉 正彦
身長 175cm
体重 110kg
誕生日 (1955-06-17) 1955年6月17日(64歳)
出身地 神奈川県平塚市
スポーツ歴 アメリカンフットボール
デビュー 1977年9月4日
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経歴編集

日本大学在学時はアメリカンフットボールの選手として活動。卒業後の1977年5月に国際プロレスに入門、同年9月4日後楽園ホールでのスネーク奄美戦でデビュー。長らくグレート草津の付け人を務める。国際では菅原伸義冬木弘道と共に「若手三羽烏」と呼ばれた。

1981年に国際プロレスが解散後、単身メキシコに渡り、メキシコ遠征後の1982年新日本プロレスタイガーマスクがブームだったこと、ウルトラマンが地方巡業で人気だったことから、全日本プロレスでもテレビ番組のヒーローをモデルにした覆面レスラーを登場させようと高杉自らがジャイアント馬場に売り込んで帰国後、覆面レスラーのウルトラセブンとして全日マットに登場することになった。本人へのインタビューによると日本テレビから全日本プロレスに出向していた松根光雄が円谷プロダクションを説得して正式に許可を得た[1]。とあるが、円谷プロからは「公認した」との広報は一切なく、同社監修本には「公認レスラーはウルトラマンロビンのみ」とされており、高杉セブンは新日のウルトラマンと共に未公認と明記されている。

当時ジュニア王者だった大仁田厚の対戦相手として全日本プロレスのリングに上がり、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦するが敗退。以後、全日本プロレスを主戦場にジュニア戦線にて活動するが、その後、2代目タイガーマスクが誕生した事で、素顔に戻され、1985年5月に「国際血盟軍」の唯一の途中加入メンバーとなる。特に目立った活躍もないまま「エキサイティングウォーズ'86」のシリーズ中である1986年3月2日に行われた岩手県陸前高田市民体育館大会(保永昇男戦)をもってカルガリーハリケーンズスーパー・ストロング・マシンヒロ斎藤高野俊二)と入れ替わるように、剛竜馬アポロ菅原と共に全日を解雇された。なお、解雇前日の3月1日に行われた秋田県立体育館大会は高杉だけがカードから外されていた。

全日解雇後は、フリーランスとして全日の前座で様々な謎の覆面レスラーに扮したり、地元である平塚市で行われる試合にスポット参戦するなど時折活動していたが、1989年に上記の剛・菅原と共にパイオニア戦志を旗揚げし、剛に次ぐNO.2として新日本プロレスに出場。剛と組み長州力&佐々木健介組に勝利するが、地味な勝ち方で評価が低く、自主興行において獣神サンダー・ライガーと対戦するも惨敗。

サンダーライガー戦の際にタイガーマスクの佐山聡がスーパータイガーに名乗っていたことに倣って、高杉もウルトラセブンからスーパーセブンと改名した[1]

その翌年の1990年にパイオニア戦志が崩壊、再びフリーランスとして活動する中、1992年に剛が旗揚げしたオリエンタルプロレスに参加するが、剛が若手選手達とのトラブルで同団体を退陣した事により、自動的にエース格となるものの、団体は崩壊。1993年にインディー団体の統括組織であるレスリング・ユニオンに加盟し、IWA湘南を旗揚げ。自主興行のみならず、他の加盟団体にも上がるが、レスリング・ユニオンが活動を停止するに伴い、1996年に湘南プロレスと改称し、現在も活動している。湘南プロレス旗揚げと同時にリングネームを本名の高杉正彦から高杉政彦に改名している。

現在は、地元の平塚市でトレーニングジムを経営する傍ら、自主興行の他にも時折インディー団体に出場し、高杉政彦とウルトラセブン(スーパーセブンから元に戻す)のリングネームを使い分けながら小規模ではあるが活動している。

2012年2月、長男の高杉祐希が、インディー団体「頑固プロレス」へ練習生として入団。9月2日、西調布格闘技アリーナにおける頑固プロレス「第130回IWA定期戦」において、盟友・剛竜馬の弟子である松崎和彦を相手にデビューした[2][3]。10月7日に行われた西調布格闘技アリーナにおける頑固プロレス「湘南パイオニアシリーズ」の第三試合「剛竜馬メモリアル」タッグマッチにおいて、祐希とタッグを組む日本のプロレス史上初の父・息子タッグが実現[注釈 1][4]。松崎和彦・ドラゴンユウキ組と対戦し、祐希が松崎のジャンピングネックブリーカードロップからの体固めで敗れた[5]

全日本プロレス退団後もウルトラセブンのリングネームを使っていることについては、当時の関係者は既に亡くなっており、プロレスラーとしてテレビに登場もしないから大丈夫ではないかとしている[1]

2013年8月に鶴見五郎が引退したため、唯一の国際プロレス出身現役レスラーとなった(アポロ菅原は引退こそしていないが長期間レスラー活動をしていない)。

2017年4月22日、湘南プロレス「高杉正彦40周年記念試合」として、大仁田厚、高杉正彦、高杉祐希対将軍KY若松雷神矢口、松崎和彦が横浜ラジアントホールで開催された。

得意技編集

  • X固め
  • フライング・クロスチョップ
  • ヒップアタック

エピソード編集

全日本プロレスに出場していた頃、他のレスラー達とバラエティー番組に出演。その際「正体・国籍不明の謎のマスクマン」と紹介されたが、テレビ収録時のトイレで、共演したビートたけしに「うぅ〜ちゃっぷい(寒い)タケちゃ〜ん、たいへんだねぇ〜」と思い切り日本語で話しかけ、後にギャグのネタにされている。

マスクを脱いだら眉毛が剃られていたことがある。当人曰く「最近低迷しているので、八田イズム(負けたら全ての毛を剃る)を見習って剃ってみた」そうだが、真偽の程は定かではない。

W★ING1993年2月3日に後楽園ホールで行った興行にて、ジプシー・ジョーの引退試合の相手を務めた際(5分間のエキシビジョン)、ジョーが最後、高杉に得意技であるダイビングニードロップを放ってフォールしたが、カウント2で返して、結局引き分けで試合は終了。このときすでに5分を経過していたのに「ニードロップを見るまでは試合を終わらせられない」と時計を止めた(ゴングを鳴らさなかった)。

リングに上がる際に、ロープを掴んだ手がすべり、後方に転倒するという失敗を2回以上している(一度は、1984年2月23日の全日本プロレス蔵前国技館大会)。当然、観客は失笑。

ウルトラセブン時代は全日本における待遇面はまずまずだったが、国際血盟軍時代の待遇面では国際時代の2年後輩の冬木よりも格下に扱われ、これが元で剛・菅原と共に整理解雇要員となったと同時に国際血盟軍メンバーでは最短在籍メンバー(10か月)となってしまった。

パイオニア戦志時代、若手のデビュー戦を務めるも体格差で圧倒され、最後に原爆固めで勝利するも「何年レスラーやってんだ、バカ」とファンに罵られた経験がある。

注釈編集

  1. ^ 父と娘ではグラン浜田ソチ浜田浜田文子のケースがある。子供レスラーを含めると、佐藤泰と佐藤力やミスター6号という父・息子タッグや、石井美紀きのこという母・娘が居る。

出典編集

  1. ^ a b c 聞き手・ジャン斉藤「私が愛した (?) ウルトラセブン IWA JAPANマニアック・レスラーシリーズ 高杉正彦」『紙のプロレスRADICAL NO.84ワニマガジン社、2005年、pp.112-113
  2. ^ “ウルトラセブンの長男デビュー戦×/頑固”. 日刊スポーツ. (2012年9月3日). http://www.nikkansports.com/battle/news/f-bt-tp0-20120903-1010669.html 2015年10月31日閲覧。 
  3. ^ 頑固プロレス (2012年9月3日). “結果 9月2日(日)第130回IWA定期戦”. 2015年10月31日閲覧。
  4. ^ “高杉正彦&祐希日本初の父子タッグ/頑固”. 日刊スポーツ. (2012年10月7日). http://www.nikkansports.com/battle/news/f-bt-tp0-20121007-1029391.html 2015年10月31日閲覧。 
  5. ^ 頑固プロレス (2012年9月3日). “結果 10月7日(日)「湘南バイオニアシリーズ」”. 2015年10月31日閲覧。