土俵
土俵(どひょう)とは、土を盛って作る相撲の競技場である。俵に土を詰めた袋(土俵)を使っているため特に土俵場(どひょうば)と呼んでいたが、これを縮めた呼称である。
構造編集
かつては俵を四角に配した角土俵が主流で、現在使われる丸土俵は江戸時代に現れて併存した後、入れ替わったとされる。後述するように、角土俵が現存する地域もある。岡山県勝央町植月地区では、角土俵による奉納相撲が小学校行事として現在も行われている[1]。
俵は主に稲藁を細い俵状に編んだものが使用され、中には土が入れられている。地方自治体で設置された土俵では頑丈なシートで俵を作成する場合もある。高砂一門に属する部屋の稽古土俵には、俵を用いない「皿土俵」という形式が採用されている。
現代の大相撲において本場所で用いる土俵は、日本相撲協会の定める「土俵規定」に基づいて作られる。一辺が6.7メートル(22尺)の正方形に土を盛り、その中央に直径4.55メートル(15尺)の円が勝負俵(計16俵)で作られ、その円の東西南北4か所に徳俵(計4俵)と呼ばれる、俵1つ分の出っ張りが設けられている。円の外側には正方形の形で角俵(計28俵:各一辺7俵の俵)を配置、その正方形の角には、あげ俵(計4俵:各角にそれぞれ1俵)が配置され、土俵に上がる段のための踏み俵(計10俵:土俵の周りに東・西・南部分に各3俵、北部分に1俵)、南西・南東には力水のための水桶を置く水桶俵(計4俵:各2俵)が配置され、合計して66俵を使用する。俵は6分を地中に埋め、4分を地上に出す。土の硬さは四股を踏んでも足跡がつかない程度とされる。俵の外線が競技上の土俵内外の境界線となる。
勝負俵の内側には若干の砂質の土が撒かれている。力士の足首への負担を減らすなどの安全対策でもある。また、勝負俵の周囲にも円形に砂が撒かれている。これは勝負俵から力士の足が出たかどうか判別する時に砂に足跡が残り、審判が判定を下しやすいためでもある。これを蛇の目(じゃのめ)と呼ぶ[2]。
土俵中央には幅6センチメートル、長さ90センチメートルの仕切り線が70センチメートル間隔で2本。エナメル・ペイントで描かれている。この仕切り線も呼び出しが描く。仕切り線は力士たちの取組によって踏み荒らされて剥がれてしまうため、2 - 3日に一度描き直しの作業が行われる。仕切り線は1928年1月場所から始まったNHKラジオの実況中継にあわせて設けられた。
大相撲の土俵は地面から俵の上部まで60センチメートル、俵を除けば土俵の上から下まで55センチメートルになるように作られているが、土俵の高さが落ちた時の怪我を生むという指摘もある。なお、国技館の土俵下周辺には1954年の9月場所[3]から力士が転落した際の怪我防止としてゴム系のクッション材が敷かれている[4]。九州場所の土俵下は全6場所のうちでもっとも柔らかい素材が敷かれており、国技館よりも幅が広い。土俵の高さと土俵下の安全性については2019年11月場所終了後の記事でも親方衆の間で意見が分かれる。14代二子山は「条件は昔から変わっていない」「(九州場所の場合)東京より幅が広いから、むしろ着地しやすい」と指摘、15代浅香山は「ケガをしない高さで造られている」「ケガをするのは体の鍛え方や基礎運動が足りないから」と証言した。一方、7代立浪は「高さがない方がケガはしないんじゃない」「ケガのことだけ考えるなら、土俵の外をもっと広くしてもいい」と話し、8代安治川は「土俵の高さがあるから、土俵際をうまくつかえる」と主張した[5]。
俵に太ももを打つことを角界の隠語で「メリケンが入る」という[6]。
俗に「土俵には金が埋まっている」と言われるが、これは「土俵で出世すれば金が入ってくる」と取的を励ますための比喩表現で、実際には金ではなく、縁起を担ぐ意味で勝栗や昆布、米、スルメ、塩、榧の実が神への供物として土俵祭の際に埋められる。
屋根・房編集
土俵の上には、方屋があり明治に東屋作りから切妻で千木と堅魚木(千木・鰹木)を持つ神明造りに変えられた。屋根の四隅(東西南北、正しくは東北、東南、西南、西北)の柱は、本場所においては1952年(昭和27年)の秋場所より廃止されて吊屋根となり、代わって四隅に房が下げられる様になった。これは、正式には房では無く四本柱に巻きつけられていた同色の布の名残で、柱の代わりに太い房を吊るようになったものである[7]。房の色は天空の四方位をそれぞれ司る四神に由来しており、青い(緑色の)房(青房)は東方を守護する青龍、白い房(白房)は西方を守護する白虎、赤い房(赤房)は南方を守護する朱雀、紫または黒の房(黒房)は北方を守護する玄武を表している(地域によって順序が異なっている事がある)。四隅の房は絹糸を寄り合わせて作られ、サイズは2.3メートル、太さが70センチメートル、重さ25キログラムである。屋根の裏には照明機材が備え付けられている。
両国国技館の吊屋根は、2本のワイヤーで上下させられる常設式のもので、相撲開催時以外は天井まで巻き上げられる。総重量は照明機材を含めて6.25トン[8]。地方場所の会場(大阪府立体育会館・愛知県体育館・福岡国際センター)の吊屋根は軽量の組立式で、場所が終わると分解され、各都市の倉庫に収納される。
大相撲の土俵から四本柱を無くす際には、賛成派の意見として「土俵が見にくい」というものが、反対派の意見として「風格がなくなる」というものがあった。反対派の意見として理詰めなものとなれば「柱があることによって土俵内で動いている場所が分かるから、柱が動きを変えるめどになる」「突き飛ばされた時も、つかまって転落するのを防げるから危険防止になる」というものが見られた[9]。
なお屋根の水引幕東西南北の中央に小さい房が下げられており、これが本来の房と言われるものである。
土編集
日本相撲協会では「荒木田土」に統一している。元々は、国技館近くを流れる荒川流域の東京都内でも採れたが、現在の両国国技館では埼玉県川越市で採取された土が使われている。粘性が高く、砂が適度(30%程度)混じっていて滑りにくく、大きな砂利やゴミの混入がないものが選ばれている[10]。これは土を盛ったとき型崩れしにくく、振動にも強いためでもある。総重量はおよそ45トン。
2017年名古屋場所までは年3回の地方場所ではそれぞれ開催地近郊の土を使っていたが、力士会から「滑りやすい」との指摘を受け、同年九州場所以降の地方場所でも川越から大阪・名古屋・福岡の各会場に輸送して使用される[11]。
使用し終わった土は、力士がまく塩を含むため、産業廃棄物として処理される[12]。
周辺用具編集
いずれも呼出が補充などを行う。
- 水桶 - 力水が入れられている。取っ手の横には力紙が吊るされている。蓋は2枚組となっており、一方の蓋を逆さまにしてもう一方に載せることでできる隙間はタオルを置く場所として使われる。
- 塩箱 - 縦横50センチメートル、高さ40センチメートルの箱。袋から出した塩をふるいに掛けこの箱に入れ水分を足して整える。東京開催の3場所で使用される塩は伯方の塩(粗塩)[13]。
- 竹籠 - 縦横22センチメートル、高さ11センチメートル、約5キログラムの塩が入る[14]籠。塩箱から塩を取り東西の土俵隅に置く。
土俵作り編集
本場所で用いる土俵は呼び出しが毎場所手作業で、数日がかりで作る。地方場所では土台部分を含めすべて一から作り、場所が終わればすべて取り壊す。国技館では毎場所作り直すのは表面部分のみであり、土台部分は地下に収納し再利用する。その流れは以下の通り[15][16]。
歴史編集
相撲において古来、相撲節会に土俵なるものはなかった。『相撲伝書』によると鎌倉時代に見物人が直径7 - 9メートル(4 - 5間)の輪を作り、これを「人方屋」と称したという。これが土俵の起源である。江戸時代に大相撲興行が始まり、「人方屋」では特定の力士の贔屓が手を出して勝負を妨害するなど喧嘩が絶えなかった。このため、まず寛文年間(1661 - 1673年)にリングのように4本の柱の下に紐などで囲ったものになった。それを俵で囲んだものとなり、四角い土俵になった。なお四角い土俵は各地の神社や南部相撲などに現存し使用されている。
次に大相撲では延宝年間(1673 - 1681年)に、東屋作りの屋根の下に四神を表す4色の布を巻いていた柱の方屋の下に、五斗俵による3.94メートル(13尺)の丸い土俵が設けられた。享保年間(1716 - 1736年)、俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」ともいう)となった。これは内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれた。
1791年(寛政3年6月11日)、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲に際して、吉田司家の吉田追風が前日に一夜で土俵を作り、初めて「方屋開」を行った。明治に方屋の屋根を神明造りにした。
1928年(昭和3年)1月12日から日本放送協会のラジオ放送による大相撲中継が始まった際、放送時間内に勝負を収めるために、それまでは無制限だった仕切りに制限時間を設定。土俵に仕切り線を設けた。1930年(昭和5年)3月場所になると、観客の視界の妨げになること、力士の怪我の原因になることを理由に、土俵上に座っていた勝負検査役を土俵下におろし、5人とした。また方屋柱に塩桶をくくりつけた[注釈 1][7]。さらに、1931年(昭和6年)4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし径4.55メートル(15尺)の一重土俵に変更された。俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、この時より俵の外側に撒かれる様になったものである[7]。
なぜ13尺土俵から15尺土俵になったかという理由については、当時の文献には全く書かれていない。男女ノ川、天竜、武蔵山、出羽ヶ嶽などの6尺(約182センチメートル)を優に超える大型力士が台頭したため、あまり早く勝負が決まらないようにして、少しでも相撲を面白く見せるためであったという説が有力である[7]。
土俵サイズは、1945年(昭和20年)の秋場所において4.84メートル(16尺)[注釈 2]にしたが、力士会の反対で11月の一場所かぎりで径4.55メートル(15尺)の現在の土俵に変更された。また土俵上の柱は1952年(昭和27年)秋場所より撤去され、屋根は天井から吊り下げる形式に変更された。
神事編集
土俵は、力士が入場の際に柏手を打つなど神がいる場所とされてきた。柏手については相撲の宗家である吉田司家の許可に基づいている。
東京両国国技館の本場所前々日に野見宿禰神社(東京都墨田区)で日本相撲協会の幹部、審判部の幹部、相撲茶屋等関係者が集まり、出雲大社教神官の神事が執り行われる。
また、各場所の初日前日に日本相撲協会の幹部、審判委員の親方などを集めて土俵祭が行われる。内容は土俵の真ん中に日本酒、米、塩などを封じ、相撲の三神(タケミカヅチほか二神)と幣束を7体祭り、立行司が祭主で介添えの行司が清祓の祝詞を奏上し、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して終わる。これは1791年(寛政3年)6月11日、江戸幕府の第11代征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲で、吉田追風が前日に土俵を作った際「方屋開」として始めたものである。これにより、千秋楽にその場所の新序出世力士によって行司を胴上げする「神送りの儀式」によって神を送るまでの間、土俵には神が宿るとされている。
現在は横綱が行う一人土俵入りは、四股で邪悪なものを踏み鎮める地鎮祭と同じ意味である。
大相撲での女人禁制編集
女性による神事相撲やかつて興行で行われていた女相撲、また相撲の近代スポーツ化のため女子への普及を目的として始まった女子相撲、日本相撲連盟・国際相撲連盟が統括するアマチュアの相撲大会の土俵には女性が上がることができる。
寺社の建立資金のために行われていた勧進相撲の職業団体が元となる日本相撲協会(大相撲)のみは、その伝統を重んじて土俵上を女人禁制としているが、以下のような事例から問題として取り上げられることがある。
- 1989年(平成元年)、森山真弓官房長官が総理大臣賜杯授与を行いたいと明言したが、日本相撲協会が拒否し、この際には女性差別問題を含め議論を呼んだ。
- 2004年(平成16年)、太田房江大阪府知事も知事杯授与を希望する旨表明したが、やはり相撲協会が難色を示し、知事杯の授与は男性副知事が代理して行われた。この決定に対し、大阪市内のNPO法人が性差別を助長する行為として太田府知事を相手取り、知事賞の費用を府に返還するよう求めた。「男女共同参画社会実現への積極性に欠けるとして政治的責任が議論される余地はあっても、性差別を助長する行為とはいえない」としてこの請求は棄却されたが、大阪府監査委員は「(代理授与は)決して好ましいこととは言えない」として知事賞の授与停止を検討するよう太田府知事に勧告した。
- 2018年(平成30年)4月4日、春巡業「大相撲舞鶴場所」(京都府舞鶴市)で、土俵上で挨拶していた市長の多々見良三がくも膜下出血で突然倒れた。観客の女性たち(看護師を含む)が土俵に上がってまっさきに救命処置を行った[17]が、これに対し日本相撲協会の行司が「女性の方は土俵から降りてください」「男性がお上がりください」と場内放送を行い、救命処置を中止させようとした[18][19][20]。この対応は大きな批判を集め[21][22]、後に日本相撲協会理事長の八角信芳が謝罪する事態となった[18]。詳細は「「女性は土俵から降りてください」騒動」を参照
- 2019年(令和元年)8月に東京青年会議所は「わんぱく相撲女子全国大会」を創設した[23]。わんぱく相撲の地方大会は地域の青年会議所が行っており、地域親善の色合いが強いことから女子の参加が認められていたが、優勝者が女子である場合に「わんぱく相撲全国大会」(会場は両国国技館・出場資格は男子のみ)に出場できない問題が生じていた[24]。このため女子の全国大会参加を要望する声があがっていたことから、それに応える形で創設されたものである。なお地域で行われている相撲大会に「少年少女相撲大会」は多く存在しており、16代井筒(元関脇・豊ノ島)はその現役の頃より自らの出身地の高知県宿毛市で「豊ノ島杯ちびっこ相撲大会」[25]、夫人の出身地である富山県高岡市で「豊ノ島杯県少年少女相撲大会」を行っている[26]。
エピソード編集
脚注編集
注釈編集
- ^ 「四本柱から見るから土俵全体が見える。土俵下では反対側が見えない」という検査役の主張がまかり通っていたため、柱のそばに座っていた検査役を土俵の下に降ろすに至るまでには苦労があった。
- ^ 桑森真介『大相撲の見かた』(平凡社新書、2013年5月 [要ページ番号])には筆者本人が所属する研究グループが行った実験について記述があり「私たちの研究グループでは、直径16尺(4.85メートル)の拡大土俵と、直径15尺(4.35メートル)の両方で学生の相撲選手に相撲を取ってもらい、体重の軽い側が勝つ率、決まり手数、競技時間を比較した。土俵を拡大すると、体重差が10%以上ある取組では、体重の軽い方が、30番行うと2・3番多く勝つことができるようになると分かった。決まり手数と競技時間は、土俵を拡大しても大きな影響は見られなかった。」という内容が確認できる。
出典編集
この節の加筆が望まれています。 |
- ^ 植月佐広「角土俵 ノコッタノコッタ◇岡山・勝央町に唯一現存、500年以上の歴史を守る勝負◇」『日本経済新聞』朝刊2018年11月7日(文化面)2018年11月8日閲覧。
- ^ コトバンク-蛇の目
- ^ 時事通信社『相撲五十年』p375
- ^ 東京両国国技館の土俵溜り敷きゴム敷設工事 (2011.12)(オーサカゴム株式会社)
- ^ 「土俵の高さがあるから土俵際をうまくつかえる」 日刊スポーツ 2019年11月25日10時0分(2019年12月12日閲覧)
- ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p76
- ^ a b c d 『大相撲ジャーナル』2017年6月号62-63頁
- ^ 土俵 大相撲ドットコム
- ^ 『大相撲中継』2017年5月27日号99頁
- ^ 大相撲の土俵に川越「荒木田土」初野建材が全場所制覇/スポーツ用 拡販に意欲『日刊工業新聞』2018年8月10日(中小企業・地域経済面)2018年10月28日閲覧
- ^ 両国の土は埼玉県川越市の荒木田土、地方でも使用へ - 日刊スポーツ 2017年8月30日
- ^ 「知る国技*土俵」読売新聞2022年9月14日付朝刊スポーツ面
- ^ https://www.hakatanoshio.co.jp/history/ 「伯方の塩」のあゆみ
- ^ https://number.bunshun.jp/articles/-/845639 大相撲・東京場所で土俵に舞う「清めの塩」は合計650kg! 使用する“超有名CM塩”のお値段は?
- ^ 土俵 ~作り方と秘密の歴史~
- ^ 大相撲を支える「土俵」づくりの裏側。間近に見られる「土俵祭」とは?
- ^ 出典:http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/events/news/180405/evt18040522110024-s1.html“「下りなさい」相撲協会員、口頭でも直接指示”. 産経新聞. (2018年4月5日)
- ^ a b “土俵で心臓マッサージしていた女性に「降りて」 京都”. 朝日新聞. (2018年4月4日) 2018年4月5日閲覧。
- ^ “「土俵から降りて」市長を救命の女性は看護資格あり、その後大量の塩撒かれる”. 毎日放送. (2018年4月5日). オリジナルの2018年4月6日時点におけるアーカイブ。 2021年11月18日閲覧。
- ^ “尾車事業部長、土俵に大量の塩も女性蔑視は全くない”. 日刊スポーツ. (2018年4月5日) 2018年4月6日閲覧。
- ^ “Japanese women ordered from sumo ring during first aid”. BBC. (2018年4月5日) 2021年11月18日閲覧。
- ^ “救命処置の女性に「土俵下りて」、相撲協会が「不適切」と謝罪”. CNN. (2018年4月6日) 2021年11月18日閲覧。
- ^ “大相撲より先進的?わんぱく相撲、女子の全国大会創設へ:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル(2019年3月7日). 2020年4月26日閲覧。
- ^ “少女横綱に「待った」 国技館の土俵上がれず 主催者「全国大会は男子が対象」”. 朝日新聞夕刊. (1991年7月3日) 1978年(昭和53年)、「わんぱく相撲東京場所」で10歳の少女が勝ち進んだが、蔵前国技館の土俵に上がれず決勝大会出場を断念した。1991年(平成3年)には、「わんぱく相撲美馬大会」で小学5年生の女子が優勝したが、両国国技館の土俵は女人禁制であるとして、全国大会出場権を示すメダルは2位の男子に授与されている。
- ^ “豊ノ島杯ちびっこ相撲 高知県宿毛市で80人熱戦”. 高知新聞(2018年12月16日). 2020年4月26日閲覧。
- ^ “豊ノ島杯、優勝杯が完成 8月24日、高岡で開催 - 富山県のニュース | 北國新聞社”. www.hokkoku.co.jp(2019年7月25日). 2020年4月26日閲覧。
- ^ 「台湾で日本時代の土俵“復活”アマ選手が取組を披露」産経新聞ニュース(2017年9月17日)
- ^ “歴代最重量292キロの力士引退「がりがりになりたい」:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル 2018年11月6日閲覧。
参考文献編集
この節の加筆が望まれています。 |
- 桑森真介『大相撲の見かた』平凡社〈平凡社新書 684〉、2013年5月。ISBN 978-4-582-85684-2。