メインメニューを開く

祭神編集

歴史編集

秦氏は、6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団とされる。秦河勝は秦氏の族長的人物として聖徳太子の元で活躍した人物である。のち京都最古の寺とされる広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置したとされる。広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って広隆寺境内から分散し遷座したものとされ、当社も大避(大酒)と云われる由縁の一つである。

河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去、そして地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建という。神社正面の海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じている。

神社には、河勝公が自ら彫ったか、聖徳太子から賜ったものとされ、雅楽で使用された1300年前の蘭陵王の面が宝物として伝えられている[1]。河勝は猿楽の始祖とされており(『風姿花伝』第四)、観阿弥世阿弥親子や、楽家である東儀家などが末裔を称し、金春禅竹金春流も河勝を初世として伝えている(『明宿集』)。

『播磨国総社縁起』の記述では、養和元年(1182年)に祭神中太神24座に列しており、当時すでに有力な神社であったとされる。

境内編集

  • 本殿 - 1769年(明和6年)の再建。
  • 拝殿 - 1746年(延享3年)の再建。
  • 神門 - 1746年(延享3年)の再建。神仏習合の影響を受け、随神と仁王像が背中合わせに配置されている。
  • 絵馬堂 - 江戸時代以降の絵馬が40余り掲げられている。中には享保7年(1722年)の絵馬もあり、船絵馬としては日本で最も古い貴重なものである。
  • ヤスライの井戸

摂末社編集

境内社
関連寺院
  • 妙見寺観音堂 - 如意輪観音・六観音・弘法大師を祀る
元は神仏習合時代、大避神社の神宮寺だった寺。大避神社左手の裏参道を登った山腹にある観音堂で、明治初年の神仏分離によって分離された。本堂は一時期坂越村の小学校として利用された。当寺は赤穂郡観音三十三ヶ所の一つであった。昭和40年代まで、中腹に本堂と庫裏が現存していたが老朽化により解体され、現在は痕跡のみ残っている。

祭事編集

坂越の船祭り編集

坂越の船祭り

概要編集

毎年10月の第2日曜日に行われ、江戸時代初期、祭神の秦河勝坂越に渡来した伝承を再現する祭りとして始まったと言われる。「山のみか 海も紅葉の 秋まつり」と詠まれているごとく、荘厳華麗かつ勇壮な神事で、我が国でも他に類をみない伝統的和船の祭礼(船渡御祭)として全国に知られる。大阪天満宮の天神祭、安芸厳島神社の管絃祭とともに瀬戸内海三大船祭りの1つに数えられる。

進行編集

祭礼第1日目の宵宮は、河勝の墓とされる生島の古墳の前で墓前祭が行われる。その後、歌船が御船歌を奏しながら浦々を巡り(磯洗い)、獅子組の青年と子供たちによる獅子舞が町内を巡る。

2日目の本宮(神幸式)は、午前中から獅子舞の里中奉舞が前日より続く中、海上では櫂伝馬船による漕比べ(花回り)が磯を巡る。正午過ぎに行われる御分霊御遷祭の後、猿田彦・神楽獅子の先祓いを先頭に頭人番五町による宮出し行列が神社から浜までを下る。浜辺で櫂伝馬船の青年たちによる勇壮な橋板バタ掛けが行われた後、御神体が神輿船に乗船し、一番・二番の櫂伝馬、三番の獅子船、四番から八番までの頭人船、九番の楽船、十番の御神輿船、十一番の警護船、十二番の歌船からなる和船12隻が船行列を組む。そして獅子舞や御船歌、雅楽が奏でられる中、御旅所のある生島までを海上の大名行列のごとく華麗に往復する(海上船渡御)。御旅所での神事の終わる夕刻、十数基の篝火が浜で一斉に焚かれる中を高張提灯を灯した船団が再び神社に還幸し、宮入鎮座祭を行ない一連の祭事が終了する。

文化財指定編集

坂越の船祭りで使用される和船(兵庫県指定有形民俗文化財)は伝統的造船技法により忠実に造られている。祭礼はそれらの技術工芸と共に、儀礼・儀式での御歌、雅楽、船壇尻船の舞台での演芸や壇尻囃子など雅やかな伝統芸能の要素が数多く含まれている。また、船渡御の船団は現在でも二艘の櫂伝馬船の人力のみで曳航、還幸は篝火と提灯の幻想的な明かりの中行われるなど、古来からの伝承のままを踏襲している。平成4年(1992年)、文化庁により選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)に選択され、平成24年(2012年)3月8日に、国の重要無形民俗文化財に指定された[2]。兵庫県下では7件目、西播磨地域では初の指定であった。 同年11月3日、国の重要無形民俗文化財指定を奉祝し、船壇尻船の海上公演が64年振りに復活した。

文化財編集

重要無形民俗文化財(国指定)編集

  • 坂越の船祭 - 平成4年2月25日、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択[3]。平成24年3月8日、重要無形民俗文化財に指定[4]

国の天然記念物編集

  • 生島樹林 - 大正13年12月9日。

日本遺産編集

荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 〜北前船寄港地・船主集落〜 - 2018年4月28日 文化庁指定。

  • 生島
  • 坂越の船祭り
  • 大避神社奉納物

兵庫県指定文化財編集

  • 有形民俗文化財
    • 坂越船祭り祭礼用和船 6隻 - 昭和60年3月26日指定。
      • 漕船(櫂伝馬・端船・橋船) 2隻
      • 楽船 1隻
      • 御座船(神輿船) 1隻
      • 警護船(議員船) 1隻
      • 歌船 1隻
  • 史跡

赤穂市指定文化財編集

  • 前句集額(歴史資料) - 平成14年3月29日指定。

大避神社に関する事象編集

キリスト教神社説編集

大避神社は渡来氏族・秦氏(はたし、はたうじ)に属する秦河勝を祭神としているが、かつて中国の景教(=ネストリウス派キリスト教)を研究した学者・佐伯好郎は、秦氏は大部分がペルシャに出自をもつと考えられるキリスト教に改宗したユダヤ人集団だった、との説を唱えた(佐伯は、秦氏を、使徒時代以後のキリスト教徒であったに違いないが時代関係から景教徒ではありえず、原始教会のキリスト教徒であったかも知れないと考えていた)[注釈 1]。そして佐伯は、大避神社の「大避」(おおさけ)とは、「避」と「闢 」が類字であることなどから、本来、旧約聖書に出て来るダビデ王の漢訳「大闢」(ダヴィ、たいびゃく)[注釈 2]の事であるとし、大避神社はダビデ王を祀った神社であるとしていた。佐伯は、これも秦河勝が創建にかかわった京都・広隆寺にゆかりの大酒神社(大辟神社)[5]にも同様説を取っていた[6][7]。ただ、これらの説は、知識人にも興味を持つ人こそあれ、学問的にはほとんど支持されていない。しかし現在でも、大避神社を語る上で欠かせない話題の一つであり、知る人ぞ知る話となっている。

なお当社には、キリスト教で重要視される「12」の数字にまつわる事象が多くある。神社拝殿の天井絵(12×8枚)、拝殿へ向う階段、境内のヤスライ井戸の石柱、船渡御の祭礼船、櫂伝馬船の漕ぎ手、神社を守る社家の数は全て12である。また、祭りの日程(旧暦の9月12日)や、神社への初穂料(昔は12銅、現在は12の倍数)も12にまつわっている。但し、日本が古来受け入れた文化にも、一年12か月や十二支、仏教の十二神将、或は十二天、など12の数は少なからず出て来る事には注意しなければならない。「12の数のミステリー」大避神社と江戸風情残る兵庫・坂越の街並みを歩く


メディア情報編集

2013年8月9日-12日、NMB48の8枚目のシングル「カモネギックス」の特典映像ドラマ 『ほしにねがうこと』 の設定舞台を全編赤穂市内として撮影収録され、大避神社でもロケ撮影が実施された[8]

現地情報編集

所在地

交通アクセス

周辺情報

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 「極東における最初のキリスト教王国弓月、及び、その民族に関する諸問題」『佐伯好郎遺稿並伝 下』1996年、p1705-1723。初出『史観』通号74、1966年。なお、佐伯は秦氏=景教徒説を唱えたと一部で信じられているが、これは誤解である。また、司馬遼太郎の短編小説『兜率天の巡礼』(『司馬遼太郎短編全集 第一巻』2005年に収録)にも佐伯説に沿ったらしい記述箇所があるが、これも当該小説の記述の正確さに疑問があり、小説内の記述をそのまま受け取る事は出来ない。詳しくはこの項目のタフ゛「ノート」参照。
  2. ^ Wikipedia「ダビデ」の中文版にも「大闢」とある。

出典編集

[ヘルプ]
  1. ^ “秦河勝作”と伝承の舞楽面を初公開”. 赤穂民報社. 2019年7月28日閲覧。
  2. ^ 平成24年3月8日文部科学省告示第31号
  3. ^ 坂越の船祭り - 国指定文化財等データベース(文化庁
  4. ^ 坂越の船祭 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ 平安時代の『延喜式』巻第九神祇九に「大酒神社元名大辟神。」とある。
  6. ^ 「太秦(禹豆麻佐)に就いて」『佐伯好郎遺稿並伝 下』p1687-1688、初出は昭和30年代か。
  7. ^ 「太秦を論す」『佐伯好郎遺稿並伝 上』、1996年、p309-326、初出『地理歴史』11-1、1908年1月。
  8. ^ 兵庫・赤穂でオールロケ、「カモネギックス」特典DVDドラマ - 赤穂民報社

外部リンク編集