大剛鉄之助
大剛 鉄之助(だいごう てつのすけ、1942年3月10日 - 2017年11月4日[1])は、宮城県仙台市出身で二所ノ関部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー、ブッカー、トレーナー。本名は、栄田 幸弘(さかえだ ゆきひろ)。
大剛 鉄之助 | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム |
大剛 鉄之助 ジョー大剛 トーキョー・ジョー 仙台 強 |
本名 | 栄田 幸弘 |
ニックネーム | 小さな大悪党 |
身長 | 174cm |
体重 | 95kg |
誕生日 | 1942年3月10日 |
死亡日 | 2017年11月4日(75歳没) |
出身地 | 宮城県仙台市 |
スポーツ歴 | 大相撲 |
デビュー | 1966年10月12日 |
引退 | 1974年3月18日 |
大相撲時代の四股名は仙台(せんだい)、最高位は幕下6枚目。プロレス転向後はトーキョー・ジョーのリングネームでも活躍。交通事故による大怪我でプロレスラー引退後はブッカーに転じ、未来日外国人選手の発掘・招聘などに手腕を振るった。
来歴編集
大相撲時代編集
少年時代から気性が激しく、喧嘩が強かった。その強い素質を見込まれ大相撲の二所ノ関部屋に入門し、1959年7月場所に本名の栄田の四股名で初土俵を踏んだ。同年11月場所から四股名を栄岩に改名し、小兵ながら激しい相撲で注目を受ける。1964年1月場所からは出身地にちなんで四股名を仙台と改めたが伸び悩み、1966年5月場所限りで廃業した。
プロレスラー時代編集
大相撲廃業後は、1966年10月12日に東京プロレス設立に伴いプロレスに転向し、入門同期には寺西勇・大磯武・柴田勝久・永源遙らがいた。当時、東京プロレスには道場が存在せずリングすら用意されていなかったため、旗揚げ戦まで選手達は合宿先であった伊東市の海水浴場の砂浜でレスリングの基本を学んだ。
同年、豊登が名付け親で出身地にあやかり仙台強の名でデビューを果たすも、東京プロレスが2シリーズで経営に行き詰まり、1967年1月、国際プロレスとの合同興行を経て崩壊。アントニオ猪木の日本プロレス復帰の際に、同期の柴田・永源は同行できたが大剛・寺西・大磯らは残されてしまい、同じく残されたラッシャー木村らと共に、国際プロレスに移籍。その際にリングネームを大剛鉄之助に改名し、前座・中堅を務め、ミスター珍とのタッグでモンスター・ロシモフとハンディキャップマッチを行ったこともある。
同期・後輩らが海外武者修行に出て行く中、チャンスに恵まれなかったが、1973年3月8日の『'73チャレンジ・シリーズ』長野大会においてホセ・クィンテロと唯一の金網デスマッチを行い[2]、同シリーズ終了直後に、マッドドッグ・バションの仲介でカナダ・モントリオール地区のGPW(グランプリ・レスリング)に遠征。現地ではトーキョー・ジョーを名乗り、バションやエドワード・カーペンティアと抗争してメインイベンターとなり、ブルーノ・サンマルチノがGPWに参戦した際はタッグマッチながら対戦相手を務めた。
1974年3月26日に故郷仙台での凱旋帰国試合が組まれた。しかしバションに帰国を申請したが契約を楯に許可が出なかったため、当時インディアナポリス地区(ディック・ザ・ブルーザー主宰のWWA)で武者修行をしていた後輩のデビル紫を呼び寄せ、後釜に据えることで帰国OKを貰った。そして3月18日、合流したデビル紫を伴って、後輩の八木宏(剛竜馬)が武者修行をしていたカルガリーへトレーラー・カーで移動する途中、スリップ事故を起こし立ち往生。対処のためトレーラーを外しているところに19歳の少年が運転する乗用車が追突し、挟まれた大剛は右足切断の重傷を負った。
ブッカー時代編集
事故によりレスラー生命を絶たれた大剛は、IWE北米支部長の肩書きでカナダに残り、ジョー・タイゴーの名でブッカーとして外人レスラー招聘を行なう。当時、国際プロレスはAWAと提携していたが、AWAへ支払う高額なブッキング料が経営を圧迫していたこともあり、大剛ルートからの招聘の比重が高まるに至り、バーン・ガニアから「自分達(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、この際に吉原功代表が大剛を選んだために提携は解消され、AWAは全日本プロレスとの提携に踏み切る。この後、国際プロレスはカルガリーやモントリオールなど大剛のカナダ・ルートをはじめ、大剛のブッキングで来日したジプシー・ジョーの仲介によるミッドサウス・ルートからの選手招聘を行なうが、WWWFと提携した新日本プロレス、NWAおよびAWAと提携した全日本プロレスに比べると見劣りがあり、後の団体解散の遠因の一つとなった。
1981年の国際プロレス解散後も、カナダでモントリオール地区を中心にブッカーを続け、ジェリー・モロー(稲妻二郎)の全日本プロレス出場を斡旋したり、若松市政をマネージャーとしてカルガリーに招聘したりしていたが、1984年7月、新日本プロレスが吉原功を顧問として迎えたことが縁で、新日本の北米支部長に就任した。これに対し、それまでカルガリーでブッカー、トレーナーとして新日本への選手派遣や海外修行中の若手選手の面倒を見ていたミスター・ヒトが反発。過去のギャラ支払いトラブルと合わせ、ヒトは新日本と縁を切りジャパンプロレスと提携、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスを新日本から全日本へ移籍させる事態となってしまった。
新日本でのブッカー業務では、キングコング・バンディ、ハクソー・ヒギンズ、ビリー・ジャック、コンガ・ザ・バーバリアン、ジャイアント・グスタブ(マネージャーは旧友ブッチャー・バション)、ザ・ジャッカル、クラッシャー・バンバン・ビガロ、ビシャス・ウォリアー、コーポラル・カーシュナー、パニッシャー・ダイス・モーガンの初来日や、アレックス・スミルノフ、ホーレス・ボウダーの移籍などで手腕を発揮。1990年代からは海外修行に出た新日本の若手選手のトレーナーや世話役としても活躍していた。
タイトル歴編集
- インターナショナルタッグ王座(カルガリー版)
エピソード編集
- 国際プロレス代表の吉原功に対する傾倒は、若松市政と双璧をなしていた。その理由は東京プロレス崩壊後に自分を引き取ってくれた感謝の念と、国際プロレスがTBSと放送契約を結ぶまでの間は、吉原功が自宅を抵当に入れてまで生活費を出してくれていた事に加え、前述の招聘ルート選択に多大なる恩義を感じたためでもあった。
- 右足切断となった交通事故の賠償では、交渉中に相手の少年が別の事故を起こし死亡してしまった事から、保険会社とのみの交渉となり相当苦労をした。大剛は「この時の経験が、ブッカーとしての交渉の際に生きたといえるでしょう」と、後に専門誌のインタビューで振り返っている。
- ミスター・ヒトとの不仲は相当なものであったといい、ヒトがカルガリーに定着した経緯[3] や、ブッカーとして商売敵であった事が主な理由でもある[4]。後年、ヒトが帰国後に経営していたお好み焼き店[5] を閉店する間際に、プロレス関係者が大剛をヒトのお店に招待するまでの長い間、その「犬猿の仲」の関係は継続していた。
- 人柄に関しては否定的な意見もある。大位山勝蔵は、1972年4月20日の出雲体育館の大会でゴーディエンコと試合後の控室で、大位山がアメリカ行きが決まったことに対して、それに嫉妬していた大剛が来て「オイ!お前はタコに[6] なってんのかよ、この野郎!!」と、言い掛かりを付けいきなりぶん殴って暴力を振るわれたことや、浅草でちゃんこ料理屋を出店した際には、大土足で座敷に上がられて来たことなどを鶴見五郎との対談で明かしている。同じ対談の席にいた鶴見は大剛に関して「本当に性格は悪かったんだよ。ミスター珍さんは我々の大先輩だったけど、そういう人に対してもプライベートで殴るような事をしていたんだから」と話している[7]。
脚注編集
- ^ a b 元プロレスラーの大剛鉄之助氏死去 大相撲から転向 - 日刊スポーツ 2017年11月4日
- ^ “IWE Big Challenge Series - Day 10”. Wrestlingdata.com. 2014年12月19日閲覧。
- ^ 詳細はミスター・ヒトの欄を参照の事。
- ^ 長州力・マサ斎藤らの新日本復帰に伴うヒトの新日本との復縁後も、誰が仲介をしても大剛とヒトの2人は一切顔を合わせる事すらなく、口も聞かない関係であったという。
- ^ 大阪府・玉造の方で、姉が経営していたお好み焼き店をそのままヒトが引き継いで経営していた。
- ^ 「タコ」になるというのは相撲界の隠語の一つであり、「思い上がっている事」や「調子に乗っている事」などを意味している。
- ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.53
外部リンク編集
- Tetsunosuke Daigo - Wrestlingdata.com
- 仙台 - 相撲レファレンス