全日本プロレス

日本のプロレス団体

全日本プロレス(ぜんにほんプロレス、正式団体名称:全日本プロレスリング、: ALL JAPAN PRO-WRESTLING、略称: AJPW)は、日本プロレス団体運営会社はオールジャパン・プロレスリング株式会社。1972年設立。現存する日本のプロレス団体としては、新日本プロレスに次いで2番目に歴史が古い[2]

オールジャパン・プロレスリング株式会社
ALL JAPAN PRO-WRESTLING Co., Ltd.
種類 株式会社
略称 全日本
全日
AJPW
AJP
本社所在地 日本の旗 日本
113-0034
東京都文京区湯島3丁目14番9号
湯島ビル8階[1]
設立 2014年7月1日[1]
業種 サービス業
法人番号 5020001106442 ウィキデータを編集
事業内容 プロレス興行
関連企画の運営
代表者 代表取締役社長 福田剛紀[1]
関係する人物 ジャイアント馬場(創業者)
馬場元子
三沢光晴
武藤敬司
秋山準
外部リンク http://www.all-japan.co.jp/
特記事項:
1972年9月9日、全日本プロ・レスリング株式会社を設立。
2012年11月1日、全日本プロレスリングシステムズ株式会社に業務継承。
2014年7月1日、オールジャパン・プロレスリング株式会社に業務継承。
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概要 編集

沿革 編集

詳細については、「歴史」の項を参照。

歴史 編集

ジャイアント馬場体制 編集

旗揚げまでの経緯 編集

1971年12月、アントニオ猪木日本プロレスの経営改善を下にクーデターを画策したとして、日本プロレスを除名され、追放された(詳しくは「密告事件」を参照)。その余波が、日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時は日本テレビNETテレビの2局放映体制であった(詳しくは「BI砲の時代」を参照)。NETの看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことで、NETはこれまで日本テレビとの関係からNETの中継に出場できなかったジャイアント馬場の出場を強硬に要求し、ついに日本プロレスの幹部は日本テレビとの取り決めを破り、馬場のNETテレビの中継への出場を解禁した。このため、日本テレビは同中継のスポンサーであった三菱電機と協議したうえで「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定[注釈 1][3][4][5]した。その一方で当時の日本テレビ社長であった小林與三次が中心となり、後にテレビ中継の責任者となったプロデューサーの原章(後の福岡放送会長)とともに極秘裏に馬場に接触し、報復手段に近い形で日本テレビと関係が近かった馬場に独立を促した[注釈 2]。日本テレビから「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」「放映権料も最大限用意する」「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」等の好条件が提示され[7]、それを受けて、馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。

1972年7月29日、馬場は日本プロレスを退団し、プロレス新団体を設立することを表明する。馬場は日本テレビなどのバックアップを受ける形でプロデューサーの原とともに渡米してサーキットを行い、その上でドリー・ファンク・シニアフリッツ・フォン・エリックブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触して協力を要請し、豪華外国人選手の招聘に成功する。日本人陣営も馬場と関係の近い大熊元司マシオ駒サムソン・クツワダ佐藤昭夫と一時現役を離れていた藤井誠之、レフェリーのジョー樋口を確保した。そして日本プロレスの若手選手であった百田光雄、取締役兼リングアナウンサーとして百田義浩に加え、役員として力道山未亡人の田中敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功する。旗揚げ直前に百田家から力道山の所縁のチャンピオンベルトを贈与され、旗揚げ後しばらくはこのチャンピオンベルトを「世界ヘビー級王座」と称し、争奪戦が目玉カードになった。「世界ヘビー級王座」は後に「PWF(世界)ヘビー級王座」となった(後に三冠統一ヘビー級王座の一つを構成)。

前述の通り、同年10月21日に旗揚げ前夜祭、同月22日に旗揚げ興行を行うが、その2週間前の同月7日から日本テレビは『全日本プロレス中継』を土曜20時台のプライムタイムに全国29局ネットの形で放送を開始。旗揚げ戦前の馬場の海外サーキットの試合などが中継された。この時点でNETのみの放送となった『日本プロレス中継』は僅か全国6局ネットにまで減少しており、日本テレビのバックアップの強さを印象付けている。

日本テレビや百田家の後ろ盾、外国人選手の招聘ルート開拓に成功した全日本プロレスに対し、日本プロレスは過去に東京プロレス国際プロレス新日本プロレスに行ったような外国人選手の招聘妨害や[注釈 3]、会場使用を出来なくするような妨害工作を行う事が出来ず[注釈 4]、興行の目玉である馬場を失った日本プロレスは一気に弱体化する事になる。

さらに、手薄な日本人陣営をカバーするため国際プロレス代表取締役社長の吉原功との会談でサンダー杉山を獲得、旗揚げシリーズには若手選手であったデビル紫、鶴見五郎ら前座選手が毎シリーズ入れ替わりで参戦する[注釈 5]など、国際プロレスとの協調路線をしばらく維持する(1978年頃まで[注釈 6])。馬場ら全日本勢も協力の見返りとして、しばしば国際プロレスの興行に参戦した。

馬場はさらに将来の投資として、旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング日本代表であった鶴田友美(リングネーム:ジャンボ鶴田)の獲得に成功する。鶴田は、渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を受けさせた。さらにザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年まで約6年半にわたり日本に定着して参戦し、馬場に次ぐ看板選手として初期の全日本の興行活動に貢献した。このほか、元国際所属で海外を拠点としていたヒロ・マツダマティ鈴木も日本人陣営の助っ人として加わっていた。特に鈴木は短期間ではあるがマシオ駒とともに、鶴田や渕正信などの若手選手のコーチ役として育成にも携わっている。

1973年2月、NWAの臨時総会が開かれ、全日本プロレス(ジャイアント馬場)のNWA加盟が認められる。本来総会は同年8月に開催される予定であったが、ドリー・ファンク・シニアの強力な働きかけにより2月に臨時総会が開かれ、すでに日本プロレスが加盟しており、「一つの地区に一人のプロモーター以外のNWA加盟は認めない」という規約を覆して、全日本のNWA加盟が認められた。これにより全日本の外国人選手の招聘ルートが更に強固になる。

日本プロレスの崩壊と事実上の救済合併 編集

1973年4月、経営状態と興行成績の悪化により日本プロレスが崩壊すると、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9名[注釈 7]の日本プロレス残党は「力道山家預かり」となることを発表する。その過程で、大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが、馬場は当初から大木らの受け入れにはかなり難色を示していたとされているが、仲介役となっていた日本テレビ社長の小林、三菱電機会長の大久保謙、日本プロレス協会の理事であった衆議院議員楢橋渡(元運輸大臣)、福田篤泰(元吉田茂首相秘書官、元防衛庁長官など)の政財界の重鎮に加え、全日本の取締役を兼ねていた田中敬子ら百田家の意向、そして馬場もまだ日本プロレスの取締役を退任していなかったことなどもあり、大木ら日プロ残党を受け入れることとなった。

だが、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日本プロレスからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた。当時の全日本の興行ポスターに日プロ合流組のうち掲載されていたのが、日プロ崩壊時にインター王者であった大木とUNヘビー級王者であった高千穂明久のみであり、馬場にとっては日プロ合流組の中でも必要な選手は高千穂とミツ・ヒライだけだったとされている。マッチメイクに関しても馬場と日本テレビ(中継の担当者であるプロデューサーの原章)との間で馬場側が全権限を持つ事が確認されており、日プロ残党の面々は、仲介者から今回の合流は「日プロと全日本との対等合併による移籍であり両者は対等の立場である」とされていたものの、実態は「全日本による救済合併」であった[注釈 8][10]

このため、日プロ合流組のうち、シングル王者であった大木と高千穂、後述のグレート小鹿以外は試合を干される事も多く、当時の全日本のギャランティは出場に対する対価として支払われるシステムであったため、合流組は金銭的な影響も受けたとされる。合流組選手のうちグレート小鹿のように機転を利かせて、馬場の運転手役を買って出る事で糊口をしのいだ者もいる。一方で上田馬之助は過去の日プロでのクーデター事件の経緯、松岡巌鉄は若手選手へのいじめや讒言、マスコミへの対応の悪さなど悪評が立っていたため、馬場は特にこの二人を評価しておらず「リストラ候補」として試合を干されるか、試合に出られても前座カードへの出場といった冷遇を受けていた[10][11]

このような扱いに対して上田と松岡が反発し、同年10月9日に退団[注釈 9]、次いで大木も鶴田らの参戦で団体内での序列が下がる形でマッチメイクが徐々に冷遇されるようになったことで「マッチメイクがインター王者としてのプライドを傷つけた」として、1974年1月のシリーズを無断欠場して韓国に戻り、全日本から一時撤退した[注釈 10]。なお、大木・上田・松岡以外の各選手は日本テレビとの3年契約が満了した後に、全日本に正式に入団している[10]

豪華外国人路線と鶴田の台頭 編集

ジャイアント馬場のアメリカ武者修行時代の人脈、ドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王者時代に築いた信用を生かし、多くの本格派外国人選手を招聘するなど力道山の時代の「日本人選手対外国人選手」の系譜を受け継いだ。新日本プロレスストロングスタイルに対し、本道といえるアメリカン・プロレスの源流に重きを置いた。この時期に鶴田を輩出してミル・マスカラステリー・ファンクなどアイドル的な人気を博したベビーフェイスの外国人選手も登場している。日本人陣営に加わったザ・デストロイヤーもベビーの扱いであり、並行して日本テレビのバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にもレギュラー出演し、軽妙なやりとりでお茶の間の人気者となり、全日本の初期の興行に多大な貢献を果たしている。また、鶴田に次ぐ話題性のある人材の発掘として、1964年東京オリンピック・柔道無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンク(オランダ)を日本テレビが主導する形で、1973年にプロレスに転向させ、全日本(日本テレビ契約)の目玉選手にしようと目論んだが、本人はプロレスの水が合わなかったこともあり、デビューから5年でプロレスを引退し柔道指導者に戻った[15]

1977年、「世界オープンタッグ選手権」に端を発するザ・ファンクスアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組の流血の抗争劇も人気を呼んだ。この「世界オープンタッグ選手権」は、翌1978年以降は「世界最強タッグ決定リーグ戦」と名前を改め、日本プロレス当時の「NWAタッグ・リーグ戦」の不評を払拭する評価を得たことで、現在も春の大場所である「チャンピオン・カーニバル」と並ぶ、年末の看板シリーズとして継続している。

次代の日本人陣営選手も鶴田をはじめ、師であった大木の元を離れて鶴田のライバル的な存在となったタイガー戸口(後のキム・ドク)、1976年に角界から転向した天龍源一郎など徐々に育ちつつあったが、団体旗揚げから馬場の右腕的存在として支え、若手選手の育成を務めていたマシオ駒が1976年3月に35歳の若さで死去した事は少なからず痛手となった。一方で外国人選手がマッチメイクや待遇などで極端に優遇されており、一部の日本人選手の間で不満が生じていた点は否めず、1976年3月末に前出のサンダー杉山が団体内の扱いの不満から退団しているほか、1977年には駒に代わって馬場の右腕的存在になっていたサムソン・クツワダが、馬場や猪木を排除しジャンボ鶴田や藤波辰巳を中心とする新団体旗揚げを画策している事が発覚し、馬場の怒りを買って全日本プロレスを解雇されていたことが、後年になって明らかになっている[16][17]

新日本との二団体時代・引き抜き合戦の勃発 編集

日本プロレスから先に分立した新日本プロレスも、トップの猪木がモハメド・アリ戦などの異種格闘技戦の実現や、旗揚げ後に発掘した外国人選手のタイガー・ジェット・シンとの抗争、国際を離脱したストロング小林や全日本を離脱した大木金太郎の様に大物選手との直接対決といった「過激な仕掛け」を中心に世間の耳目を集めたことで、全日本に比肩する対抗団体に成長している一方で、全日本の旗揚げ当初は協調していた国際プロレスが経営難から興行能力が徐々に低下していたこともあり、事実上この時期の日本マット界は「全日本対新日本」という二大団体時代の「レスリング・ウォー(興行戦争)」に突入していくこととなった。

1981年、新日本との引き抜き合戦が勃発した。新日本の「IWGP構想」に呼応する名目でブッチャーやタイガー戸口が引き抜かれるが、全日本も報復として7月に新日本の看板外国人選手であったタイガー・ジェット・シン(シンとタッグを組む上田馬之助も全日本に転戦する)、さらに12月にスタン・ハンセンを引き抜いた。特にザ・ファンクスが中心となって引き抜いたハンセンの全日本移籍は、新日本に大きなダメージを与え、新日本側との引き抜き合戦が一時休戦となる決定打となった(経緯はスタン・ハンセン#全日本プロレスへの引き抜きを参照)。さらに同時期に経営難により崩壊した国際プロレスの選手のうち、新日本への参戦を拒否したマイティ井上米村天心菅原伸義(後のアポロ菅原)、冬木弘道の3選手を引き連れて全日本に合流、さらに阿修羅・原もフリーとして全日本に参戦する(その後、全日本に入団)など、獲得に動いた馬場の政治力を発揮する一面もあった。また、馬場や鶴田に次ぐ日本人選手として海外修行から戻った天龍が戸口離脱後の三番手に浮上し、ジュニア戦線でも大仁田厚三沢光晴らが台頭していった。

その一方で『全日本プロレス中継』の放送時間帯が土曜夕方のローカル枠に移行した事で、視聴率の低迷に連動して団体の経営状態が一時悪化したため、中継権を持っていた日本テレビから幹部がテコ入れとして送り込まれた。1981年12月21日、馬場は会長職に就き、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長に就任した。これ以降は大八木賢一(後に全日本専務、ノア専務)など多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍している[18]。表向きは馬場のレスラー専念の意向とみられたが、実際は全日本のトップレスラーであった馬場を事実上引退させ、プロモーターとして専念させる意図があったとされる。日本テレビ主導により、馬場に代わるエースとして鶴田を中心に世代交代を図ることがミッションとなり、その現場責任者としてプロパーメンバーかつ馬場の信任も篤い佐藤昭雄がブッカーとなった。松根と日本テレビは佐藤に対し「強い日本人レスラーの看板を作って地方興行が入るようにやってほしい。もう外国人同士がトップでやる試合を撮りたくない」という意向を示していた。それを受けて佐藤は日本テレビと馬場との間に入り緩衝材の役目を果たす一方、看板選手は馬場一強体制から鶴田・天龍の二頭体制にマッチメイクを漸次的に移行するとともに、佐藤は駒以来の若手育成方針を一新(若手選手の大技使用の解禁など)して、三沢のほか越中詩郎(後に新日本へ移籍)、冬木弘道、ターザン後藤川田利明ら未来を担う若手選手の育成を進めている。また中堅選手であった高千穂明久が海外遠征を経てザ・グレート・カブキとして1983年に凱旋帰国し、海外遠征時のスタイルを直輸入する形で人気を集めることとなった。

馬場会長・松根社長の体制は1989年4月に松根が社長を退任するまで続き、その後は馬場が社長に復帰したが、馬場自身は年齢面を理由にタイトル戦線から退く形となり、団体内は「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本テレビの目論見通りに鶴田や天龍を中心とした日本人選手同士の対戦が主軸となった[19]

ジャパンプロレスの参戦 編集

1983年、対抗団体である新日本で勃発した猪木に対するクーデター騒動の余波で、新日本を退社し興行会社の「新日本プロレス興行」(以下、新日プロ興行)を設立した大塚直樹(元新日本営業部長)に馬場は接触、1984年6月、全日本と新日プロ興行が業務提携、新日プロ興行が全日本の興行を手掛ける事となった。手始めに同年8月26日の田園コロシアム大会をプロモートし、海外遠征中であった三沢を極秘帰国させ、原作者の梶原一騎の了解のもとで2代目タイガーマスクへ変身させて全日本マットに登場させる[注釈 11]などの仕掛けもあり、興行的に成功を収めた。新日プロ興行はこれを機に関係が悪化していた新日本プロレスと絶縁し、新日本からの選手引き抜きに着手した[20]

この動きに長州力アニマル浜口小林邦昭谷津嘉章寺西勇の「維新軍団」5名が応じて新日本を離脱し新日プロ興行の役員として参画、さらに新団体の「ジャパンプロレス」に改組したうえで全日本と業務提携を締結し、ジャパンプロレス勢は同年より全日本に参戦する事となった。ジャパンプロレスには永源遙[注釈 12]追従する選手も加わり、さらに海外を主戦場としていたマサ斎藤キラー・カーンもジャパンプロレスの一員として全日本に参戦することとなった[注釈 13]。一方で元国際のエースで新日本・(第1次)UWFなどに参戦していたラッシャー木村も参戦し、旧国際プロレス勢を中心とした「国際血盟軍」を結成[注釈 14]。また外国人選手でも、新日本の常連参戦選手であったダイナマイト・キッドデイビーボーイ・スミスの「ブリティッシュ・ブルドッグス」を引き抜く[注釈 15]など、新日本にさらなるダメージを浴びせた。軍団抗争を軸に多彩な日本人陣営や外国人選手など豪華な選手層を誇った。新日本は長州らジャパンプロレス勢やブリティッシュ・ブルドッグスの引き抜きの報復として、全日本の常連参戦選手であったブルーザー・ブロディや越中詩郎、ケンドー・ナガサキ(桜田一男)を引き抜き返した[22]ものの、新日本の興行的なダメージを払拭するまでには至らなかった。同時期には経営危機が表面化し活動停止に追い込まれた(第1次)UWFの業務提携の動きもあったが、既に全日本の日本人陣営はジャパンプロレス勢や国際血盟軍なども含めて飽和状態にあり、所属全選手の受け入れを求めたUWFと前田日明高田延彦のみのオファーを示した全日本側の意向が一致せず、UWFは新日本との業務提携に舵を切ったとされる[23]

また、同時期には元大相撲・第54代横綱の輪島大士や、新日本や海外団体との争奪戦となった元幕下の琴天山(ジョン・テンタ、1989年からWWFに移籍)、さらに元十両・卓越山の高木功、元十両・玉麒麟の田上明[注釈 16]と角界出身者を相次いで獲得した。この事から日本相撲協会との軋轢が生じて、1986年11月に日本相撲協会は両国国技館の全日本への貸出禁止を通達したため、馬場没後となる2004年7月まで全日本では両国国技館での興行は行われず、東京での大場所興行として年間を通じて日本武道館興行が定着する契機となっている[24]

軍団抗争を軸に戦線が活性化した事で、土曜夕方ローカル枠であった『全日本プロレス中継』の視聴率も持ち直し、1985年10月に同番組は土曜19時台に中継枠が移行し、ゴールデンタイムへの復帰を果たした(その後、1988年3月をもってゴールデンタイムからは撤退し、日曜深夜22時30分から23時30分の1時間枠へ移動する)。

この時期、新日本との興行戦争は続いていたが、選手の引き抜きを巡ってはギャラの高騰など経営的に双方に負の効果も招いたほか、新日本ではブロディが団体との対立から参戦をキャンセルする事件も起きたことで、エスカレートする引き抜き合戦の手打ちが新日本・全日本双方により水面下で図られ、双方の弁護士立ち合いの上で1985年末には「引き抜き防止協定」が結ばれる事となった[25]

鶴田・天龍両エース体制の確立・三冠ヘビー級統一 編集

その後、1987年にジャパンプロレスが団体の方向性を巡って分裂し、ジャパン残党組から谷津、永源、栗栖正伸、仲野信市の4名とカルガリー・ハリケーンズの高野俊二が全日本に入団した。一方で長州らが新日本に戻ったのをきっかけに、全日本が以前のファイトスタイル(外国人の対決中心)に戻ってしまう事に危機感を抱いた天龍は阿修羅・原と『龍原砲』を組み「地方の試合でも手を抜かない」激しいファイトスタイルを見せた。天龍の決起はいわゆる『天龍革命』と呼ばれ、鶴田、ハンセン、新日から復帰したブロディらと激しいタイトル争いを演じているほか、冬木や川田利明といった賛同者が加わり『天龍同盟』に発展した。一方で天龍からの批判の対象になった鶴田もジャパンから移籍した谷津をパートナーに『五輪コンビ』を組んで『龍原砲』との抗争に発展、さらにはタイガーマスクら若手選手が『決起軍』を結成する[注釈 17]など全日本内の意識改革に大きな貢献を果たすとともに、「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられている。

1986年3月31日、長年加盟していたNWAを脱退する。1984年より馬場は、NWAの第一副会長を務めていたが、WWF(現:WWE)による全米侵攻により各地区のプロモーターに多大な影響が発生したことに加え、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化したことによってNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制が形骸化したことや、NWAから「鶴田、天龍の世界ヘビー級王座への挑戦は認めない」という指示が出たことでNWAとの関係を見直す契機となり、NWAからの脱退を決めたことで、以降団体内での闘いにシフトしていった。

1987年ハル薗田が新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇し夫妻とも不慮の死を遂げた。薗田は31歳というこれから脂の乗ってゆく年代の選手であるだけに期待されており、マシオ駒亡き後の若手に対するコーチ役を務めていたことから組織としても痛手となった。また嘱望されていた輪島もデビューから僅か2年程の活動で1988年12月にプロレスを引退し、阿修羅・原も1988年11月に自身の私生活上の問題(主に多額の借金)などにより、全日本を解雇された。さらに常連外国人選手であったブロディも1988年7月に不慮の死を遂げるなど、この時期にも選手の入れ替わりが少なからず起きている。

全日本のヘビー級タイトルとして、力道山に由来する「PWFヘビー級王座」、日本プロレス以来の「インターナショナル・ヘビー級王座」と「ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級(UNヘビー級)王座」の3つのヘビー級王座が分立し看板となっていたが、昭和末期以降から徐々に各ベルトの統一を図る動きが出てきた。

1988年3月9日の横浜文化体育館大会で、UN王者の天龍とPWF王者のハンセンによるダブルタイトル戦が行われたのを皮切りに、まずは天龍がUNとPWFの二冠王者となり、さらに同年4月15日の大阪府立体育会館大会で、インターナショナル王者のブロディとのトリプルタイトル戦が行われたが、両者リングアウト決着で三冠統一を果たせなかった。これ以降、3つのヘビー級王座の統一戦が試みられるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着が続き、三冠王座の統一がなかなか進まない状況となった。

最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田(インター王者)対ハンセン(PWF・UN王者)戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥った。これがきっかけとなって全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが後の鶴田対超世代軍、四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。三冠統一は同年4月18日大田区体育館大会で鶴田が勝利し、初の三冠王者が誕生した事で、以降は「三冠ヘビー級王座」として、全日本の看板タイトルとして定着する。統一からしばらくは文字通り王者は三本のベルトを巻いていたが、経年劣化によりベルトの老朽化が進んだため、2013年10月27日より一本のベルトに新調された。過去の三本のベルトは修繕のうえで、馬場家に返還されている[27]

SWS騒動とプロレス四天王の全盛期 編集

1990年メガネスーパーにより設立されたSWSに、天龍・カブキ・谷津・鶴見・冬木・高野・仲野・高木・北原辰巳折原昌夫など、多くの全日本所属選手・スタッフが移籍したことで、一時存続が危惧される事態となった(いわゆる「第1次大量離脱騒動」)。主に待遇面に不満を持つ形での移籍となったが、馬場の存命中は離脱した選手を再び全日本に参戦させることはなかった。この危機に対し、2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴がマスクを脱ぎ、自らが率いる『超世代軍』が鶴田に挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こす。鶴田が率いる『鶴田軍』、三沢が率いる『超世代軍』、それに外国人選手との戦いが主軸となった。

1992年、鶴田が内臓疾患(B型肝炎)のため一線から退くと、三沢・川田・小橋健太田上明の『プロレス四天王』(後に秋山準が加わる形で『五強』とも)による戦い(三沢・小橋・秋山らの『超世代軍』と、事実上『鶴田軍』の後継ユニットとなった川田・田上らの『聖鬼軍』の抗争)が中心となり「四天王プロレス」と呼ばれる形へ発展した。ジャパンプロレスのハイスパートレスリング、『天龍革命』によってもたらされた「激しいプロレス」を出発点とする危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳しくは「王道プロレス」を参照)は先鋭化し続け、テレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどであった。

一方で馬場・ラッシャー木村・百田光雄らベテラン選手(他にスポット参戦の鶴田、ブッチャーや現役最末期のアンドレ・ザ・ジャイアントなどが加わる)は事実上第一線を退く形で『ファミリー軍団』を結成し、同じくベテラン選手の大熊元司(1992年12月死去)・永源遙・渕正信・マイティ井上(『ファミリー軍団』から移動)らの『悪役商会』との通称『ファミ悪対決』として、試合後の木村のマイクパフォーマンス同様に休憩前の名物となり、当時の全日本のキャッチフレーズでもある「明るく楽しく激しいプロレス」のうち「明るく楽しい」部分で「会場を温める」役割を担った。

この時期には空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取った。日本武道館大会は発売後即完売となるほどの人気を誇った。1998年には東京ドームに初めて進出して『全日本プロレス創立25周年記念大会』を開催している(馬場存命時では唯一の全日本での東京ドーム大会[注釈 18])。この興行により全日本は「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透したのである。ただし、メディアコンテンツである「全日本プロレス中継」はこの隆盛をもってしても深夜の放送枠から脱せず、さらには1994年に放送枠が60分が30分に短縮される(ビッグマッチなどは45分に拡大される時もあった)など、後述の打ち切りまで地上波でのプロレス中継は昔のような勢いを取り戻す事はできなかった。

三沢光晴体制 編集

1999年1月31日、馬場が肝不全のため、61歳で死去した。直後の同年3月には鶴田も現役を引退し、全日本の取締役を退任している(その後、2000年5月13日に死去)。

同年5月7日、三沢が社長に就任し、馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また三沢、仲田龍らは新日本などで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。だが、伝統の保持を第一優先と主張する馬場未亡人で実質的なオーナーであった馬場元子との軋轢が生じ、運営方針を巡って三沢や仲田などとの対立が続き、その結果、2000年5月28日、三沢は臨時取締役会で社長を解任された。

三沢は社長解任後の2000年6月13日、取締役の退任と全日本退団を表明した。さらに三沢に追従する形で取締役のうち、元子、馬場の姪でもある馬場幸子、渕正信を除いた全員が辞任し、三沢に同調した小橋・田上を含めた選手26名、練習生1名、大半のスタッフが全日本を退団して『プロレスリング・ノア』を設立した(いわゆる「第2次大量離脱騒動」)。日本テレビも放送枠の深夜帯移行や時間短縮などで継続してきた旗揚げ以来の『全日本プロレス中継』を終了し、所持していた全日本プロレスの株式も手放すこととなった(この経緯で全日本と日本テレビは2001年の『ジャイアント馬場三回忌興行』まで絶縁状態となる)。放送枠は『コロッセオ』を経て『プロレスリング・ノア中継』に切り替えた。これにより放映権料も失う事で、全日本はSWS設立時を上回る旗揚げ以来の最大の危機に陥った。

馬場元子体制 編集

全日本残留者による活動

全日本プロレスに残留した所属選手は川田利明、渕正信、マウナケア・モスマン(現:太陽ケア)、当時は現職の国会議員であった馳浩(現:石川県知事)の4人のみとなる。選手以外では、レフェリーの和田京平、リングアナウンサーの木原文人、広報1名、そして馬場元子の6名となった[注釈 19]

外部選手の参戦と新日本との交流開始

一気に選手層が薄くなり興行活動の危機であったが、新崎人生奥村茂雄の参戦を皮切りにインディ団体所属選手やフリー選手を参戦させ、さらにはSWS移籍以降は袂を分かっていた天龍源一郎が全日本に参戦した。また、渕が使者となる形で新日本プロレスとの交流に踏み切り、これに応える形で蝶野正洋やかつて全日本に所属していた越中詩郎などが全日本へ参戦を果たした一方で、川田と渕が新日本の興行に出場するようになった。なお、スタン・ハンセンやスティーブ・ウイリアムスといった馬場時代からの常連外国人選手の多くは全日本へ参戦している。大量離脱直後に参戦した選手のうち、天龍、奥村、荒谷信孝平井伸和などがその後に全日本所属選手となっている。

2001年1月28日、東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初参戦。ケアに勝利した後に共闘し『BATT』を結成する。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座世界タッグ王座を獲得し、さらに年末の世界最強タッグ決定リーグ戦も制し、プロレス大賞最優秀選手賞(MVP)を受賞した。武藤は、同年の日本武道館大会の全6大会すべてのメインイベントを務めた。

武藤敬司体制 編集

武藤敬司を含めた選手4名の移籍

2002年2月26日、新日本を退団した武藤、小島聡ケンドー・カシンWWF(現:WWE)を退団したカズ・ハヤシが全日本に入団した。この事態により、一時新日本との交流戦は凍結状態となった[注釈 20]。武藤は同年10月に馬場元子に代わり、全日本の社長に就任している。

パッケージプロレスの浸透

武藤の社長就任直後は、三沢社長時代と同様に株式譲渡が無く、再び馬場元子オーナーと実務者の社長という構図の軋轢が生じた。その後、渕とレフェリーの和田らプロパー役員が武藤側に回り、渕・川田・和田の連名で武藤への株式譲渡懇願書を元子に提出した。武藤には無償で株式が譲渡され、元子はオーナーを退き事務所を六本木から移転した。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりで、ジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦して全日本の伝統でもある「日本人選手対外国人選手」を受け継ぎつつ「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴であった。

通常の興行は、橋本真也が率いるプロレスリングZERO-ONEとの団体対抗戦後、TAKAみちのくが率いる「RO&D」が参戦。その後、TARUが率いる「VOODOO-MURDERS」や、佐々木健介中嶋勝彦の「健介ファミリー」、鈴木みのるNOSAWA論外MAZADATAKEMURA高山善廣にケアを加えた「GURENTAI」の定期参戦、元大阪プロレス菊タロー大相撲第64代横綱らの参戦により、新たなファン層の獲得にも成功する。

特別興行では、2002年6月9日A BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!!PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年と2004年にはツアーとして開催。2008年12月23日に約4年ぶりに開催。またファン感謝デーや毎年6月10日に開催される「武藤祭」は非常に好評で、プロレスラーとお笑い芸人がタッグを組んで争われるF-1タッグ王座など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されていた。さらに、武藤が司会を務めていた番組「武藤敬司☆SHOW」がきっかけで、対談した船木誠勝らが興行に関わったり、同じく対談した夏目ナナのプロデュース興行や[28]吉沢明歩らが参加したセクシー女優とのコラボ興行を開催した。

2002年11月17日石井和義館長が率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で、プロレス版Dynamite!として「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を横浜アリーナで開催。第2弾は2003年1月19日に東京ドームで開催。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。ちなみにこの興行をフジテレビプライムタイムで放送したが、サブタイトルは「ボブ・サップのプロレスエンターテインメントショー」と銘打たれ、プロレス中継というよりは当時人気だったサップを中心とした番組として放送された。

江崎グリコのプロダクトマネージャーで、全日本のコンディショニングコーチを務めていた桑原弘樹とゴールドジムの協力によるプロレスラー流のトレーニング方法や、サプリメントなどの栄養学を参加者に公開する「武藤塾」を毎年開催しており、番外編として年に1度新人オーディションを開催していた。

日本武道館興行から撤退

かつて全日本の主要大会と言えば日本武道館大会だったが、2004年2月22日を最後に撤退した。代わりに代々木第二体育館に加え、年1〜2回行われた両国国技館での興行「プロレスLOVE in 両国」では、プロレス界で初の試みとなる複数の企業から出資金を募り、1つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催された。

地上波テレビ中継の獲得

2004年4月、テレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組「プロレスLOVE 〜夜のシャイニング・インパクト〜」が開始された。2005年3月以降は、両国大会のみ放映。

2007年4月6日、「全日本プロレス マザー」がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜・京都・神奈川でも放送された。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回、土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。

VOODOO-MURDERSによる不祥事

2011年5月29日スーパーヘイト(平井伸和)が試合後に嘔吐・昏倒したため病院に搬送され「急性硬膜下血腫」の診断を受け緊急手術が行われた。同年5月31日VOODOO-MURDERSのリーダーのTARU(多留嘉一)が、試合当日にビジネス上での口論からスーパーヘイトを数発殴打した事を自ら会社に申告した。6月1日、TARUの無期限出場自粛を発表すると共にTARUがスーパーヘイトを殴打したとき控え室に居た河野真幸MAZADA(正田和彦)の無期限出場停止処分とVOODOO-MURDERSの解散が発表された[注釈 21]。なお、TARUとMAZADAは同年11月22日に兵庫県警葺合署により、傷害容疑で逮捕されている[29](その後、神戸簡易裁判所より両名に罰金30万円の略式命令が下った)。

この事件に対する影響は大きく、同年6月7日、武藤が一連の事件の引責により社長を辞任(選手兼取締役としては留任)し、代わって取締役の内田雅之が第7代社長に就任した。さらに同年6月19日、レフェリーの和田京平が突如、全日本を退団したが、背景として武藤が早急に謝罪会見を開かなかった対応を批判したところ、「会社への裏切り」と見なされ、契約を解除されたと和田は主張している[30][31]

白石伸生体制 編集

スピードパートナーズの買収

2012年11月1日、スピードパートナーズ(のちに、八丁堀投資へ社名変更)の社長を務めていた白石伸生が、全日本の株式を100%取得しオーナーになる。旧来の全日本プロ・レスリング株式会社を過去のコンテンツ版権管理などのわずかな役割を残した上で、資本金1億円で全日本プロレスリングシステムズを設立し事業内容を引き継ぎ、新しい運営会社としてスタートを切った[32]

武藤敬司らの大量離脱

就任した白石はFacebookで過激な発言を繰り返し、槍玉として上げられた新日本プロレスなど外部の人間が抗議するなど反感を呼んだ。結果として後述の全日本の分裂の遠因となったほか、新日本との関係が悪化する原因ともなり、各方面に軋轢を生じた。2013年6月1日に新役員体制が発表され、社長を務めていた内田雅之が退任し白石が新社長に就任した[33]。一方、武藤は取締役会長を辞任するとともに全日本を退団した[34]

その後、武藤側は白石との間で全日本プロレスの株式の買い戻し等の交渉を進めていたが、交渉が不調に終わったことから退団者と新団体の旗揚げを示唆。全日本の選手とスタッフを中心に退団を呼びかけ、船木誠勝、河野真幸、KAI真田聖也中之上靖文浜亮太田中稔、カズ・ハヤシ、近藤修司大和ヒロシアンディ・ウー、練習生全員、そして一部のスタッフが退団を表明した(いわゆる「第3次大量離脱騒動」)[35]。一方で大森隆男諏訪魔ジョー・ドーリング征矢学[注釈 22]SUSHIが全日本への残留を明言したほか、太陽ケア、レフェリーの和田京平が限定的ではあるが全日本へ復帰する方針を明らかにした[36]

新体制発足

2013年7月5日、新体制を発表し2月から全日本に参戦していた秋山準潮崎豪金丸義信鈴木鼓太郎青木篤志バーニング5名が所属選手(秋山、金丸は13年ぶりに全日本復帰)となり、レフェリーの和田が名誉レフェリーという形で復帰した。白石代表の下、13名(選手10名、スタッフ3名)で再出発することとなった。一方、武藤らは7月10日に新団体『WRESTLE-1』を旗揚げした。7月14日には、態度を保留していた渕正信が取締役相談役に就任する形で残留[37]。従前に比べ手薄となった選手層の補強は以後も積極的に行われ、9月1日付で曙が入団し、10月には練習生4名が入寮した[38]

同年8月1日、スピードパートナーズ社内で全日株を保有することに反発した幹部たちに対し、白石は自身のスピードパートナーズ社の全株式を売却すると決定。同日、白石はオーナー辞任のうえでスピードパートナーズ社は「株式会社八丁堀投資」に社名変更。同社の傘下企業だった全日本プロレスリングシステムズや、エステ・アパレルなど計5部門を自身の資産管理会社の株式会社レッドウォールジャパンに移し、全日本プロレスリングシステムズの新しい親会社となった[39]9月11日付で井上博太が代表に昇格し、白石はオーナーとして後方支援を続けた[40]。また、2013年に全日本プロレスリングシステムズ株式会社によって出願された「全日本プロレス」の商標は、白石の株式会社アールワンが継承していた[41]が、2018年12月にオールジャパン・プロレスリング株式会社(次項参照)が譲渡を受けて保有している。

秋山準体制 編集

新法人設立

2014年6月4日、秋山が7月1日付で自らが社長となる新法人を設立した上で、全日本の運営を全日本プロレスリングシステムズから引き継ぐ方針であることが明らかになった[42]。所属全選手が秋山に追従する方針である他、馬場元子も秋山を支援する意向を明らかにしている。背景には、2014年に入ってから所属選手へのギャラの支払いが滞り始めていたことがあるという[43]。一方、旧法人オーナーの白石は自らのブログで、資金面の問題について「選手、フロントに甘えがあったので、支援金額を1月から固定化した」「団体経営を理解させるための治療薬」と釈明したうえで[44]、新会社設立について「様々なスポンサーが設立時に出資しやすくするため」と語り、今後は数あるスポンサーの中の一社として団体を支援していく考えを明らかにしていた[45][注釈 23]

7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と、同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足し、興行の運営会社とする形で秋山新体制をスタートさせた。全日本プロレス・イノベーションの事務所は山形県山形市ケーブルテレビ山形の社内に置かれ、通信放送やグッズ・ファンクラブ・ゲームキャラクターなどの企画・運営を行うコンテンツ会社としての役割を受け持ち、同社が10%の出資を行い、同社の吉村和文社長が会長に就任。オールジャパン・プロレスリングの事務所は7月7日に、もともと合宿所として使用していた横浜市青葉区の施設に移転するほか[47]、諏訪魔が取締役、馬場元子が取締役相談役に就任することが発表された[48]

2015年秋に入り潮崎、曙、鼓太郎、金丸と相次いで全日本を退団した[49][50]、興行数が減少していることもあり、選手への給料を従前の固定給から試合の出場給に改める代わり、所属選手の契約形態を専属契約から「所属だが他団体への出場も自由」(いわゆる「専属フリー」)の形に変更する方針も明らかにされた[49]。12月から全日本プロレス・イノベーションとオールジャパン・プロレスリング両社間の関係が分離され、興行権がオールジャパンに完全移行された[51]。社長の秋山を除いた経営陣は11月末で退任し[52]、今後はオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。ただし、全日本プロレス・イノベーションはオールジャパン・プロレスリングの株式の34%を保有し続けており、関係は継続されている[51]

2016年9月30日BS11で「全日本プロレスイレブン」の放送開始を発表。毎月第3月曜日の23:00から23:30で、10月17日からスタートした。その後2回の放送日時変更を経て、2018年9月19日の放送をもって終了となった(全24回)[53]

2018年3月19日、インターネット動画配信サイト「全日本プロレスTV」サービス開始。主要カードの動画が見られるほか、大規模な大会では生配信も行う。

秋山体制の末期となった2019年6月、主にジュニア戦線を担ってきた青木篤志が不慮の交通事故で死去した。青木は同年5月に世界ジュニアヘビー級王者に返り咲いたばかりで在位中の死去となり、防衛戦を控えた矢先の急逝となった。このため、全日本では王座防衛期限である半年間(同年11月20日まで)は青木を王者と認定し、その間は選手権試合を行わない事とした(後に世界ジュニア王座決定トーナメントを開催)[54]

福田剛紀体制 編集

ゼネラルマネージャーの設置

秋山体制の5年間で、宮原健斗をはじめとする若手が台頭してきたことから秋山が現場に専念するため、2019年7月8日付で社長職を退任した。後任にオーナーとして携わってきた福田剛紀が新社長に就任した。当初、秋山に取締役会長を打診されたが、秋山自身の「現場でやりたい」という要望を受け、団体初のゼネラルマネージャーに就任することとなった。また社外取締役に2AW取締役会長の十枝利樹が就任。一方で、2016年より取締役となっていた大森隆男が、選手活動に専念するため取締役を退任した[55][56]。また2020年1月より、プロ野球西武ライオンズ横浜DeNAベイスターズでスポーツビジネスに携わってきた五十嵐聡が副社長に就任した[57][58]

脱・秋山 - 諏訪魔役員復帰

2020年1月16日のプロレス大賞授賞式を最後に、秋山は取締役およびゼネラルマネージャーを退任した[59]。その後、秋山は同年5月9日DDTプロレスリングのゲストコーチへの就任が発表され[60]、さらに同年7月1日付でDDTへのレンタル移籍となった[61]。後に秋山は同年12月31日付で全日本との契約満了に伴い退団し、翌年2月よりDDTに入団している[62])。秋山のDDT参戦・移籍の背景として、前年にすべての役職を解任されたことに続き、年末に福田から若手の指導をTAJIRIに任せると告げられたとし、そのタイミングでDDTからオファーを受けたことを明らかにしている[63]。選手会長の諏訪魔はいち早く「脱・秋山」を掲げ[64]、福田社長と直接会談に臨み、今後の方向性を確認した[65]。9月4日より、社長の福田によるコラム『全日本プロレス社長からの便り』(第1回のみ『全日本プロレス社長〜福田剛紀からの便り〜』)を公式サイトにて毎月1回連載開始[66]

2021年3月1日付で諏訪間幸平(諏訪魔)が専務執行役員に就任[67]。あわせて、副社長の五十嵐聡の辞任が発表された[68]

2022年9月18日には50周年記念大会を日本武道館で開催。2004年2月22日を最後に撤退した日本武道館での興行が18年ぶりに復活した。

2023年後半から2024年初にかけて、大森隆男ヨシ・タツ石川修司ブラックめんそーれら主力選手、前述のノア分裂騒動においても残留し長年活動してきたリングアナウンサーの木原文人やレフェリーの李日韓などスタッフの退団が続出する事となった。一部メディアの報道では、女子団体のActwres girl'Zとの業務提携が突如発表されるなど団体の運営方針が、社長の福田の一存により突如決定するなどして団体内の混乱の元となっていることや、福田自身の数々の言行が批判を招くなど、選手間で福田に対する不信感を招いていることが原因と見られている。また、前年10月から全日本にフリー参戦し、三冠ヘビー級王者となった中嶋勝彦の「他社からの引き抜き」や「クーデター」を示唆する不穏な発言などから、騒動の黒幕として元新日本プロレス社長のサイモン・ケリー(WWE日本担当アドバイザー、アントニオ猪木の元女婿)の存在が取り沙汰されるなど、団体内の混迷が見られ、2024年の契約更改においては選手数人が契約締結を保留しているとされているなど、福田体制への不信感が続いている[69][70][71][72]

育成 編集

番勝負 編集

将来有望な若手選手に、一流選手との対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いからトップクラスの選手を相手にした「番勝負」が実施されることがある。

1976年から1979年まで3年がかりで行われた「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」に始まり、2代目タイガーマスク(三沢)が1986年から1988年にかけて行った「猛虎七番勝負」等を開催。ほかにも小橋、秋山らもこの番勝負を経験してスターダムを駆け上がった。後に、三沢が立ち上げたノアでも開催された。

武藤が社長に就いてからも、本間朋晃諏訪間幸平が挑戦している。宮本和志は本間をパートナーにタッグマッチで挑戦、天龍は2003年に若手選手を鍛える目的のシングル七番勝負を行った。

2019年、大森北斗がデビュー一周年を記念し、地元の北海道で「大森北斗 北海道試練の三番勝負」を実施。若手の番勝負としては約15年ぶりの開催となった。

2020年、愛媛プロレスライジングHAYATOが「ライジングHAYATO試練の3番勝負」を実施。他団体の若手に対しての実施は初[注釈 24]

2021年、WRESTLE-1を経て1月1日付けで入団した本田竜輝が「高校からレスリングを始めた僕が、老舗プロレス団体に飛び込みで参戦を直訴し、正式入団を果たしたのちに、トップ選手への階段を登るための 試練の七番勝負」を開始。ヘビー級選手の番勝負、および七番勝負は諏訪間幸平(当時)以来、約17年ぶり。

あすなろ杯争奪リーグ戦 編集

有望な若手選手が複数人所属する時期に、不定期で開催されるシングルリーグ戦。過去5回開催された。なお、基本的に優勝しても特典はない(第2回大会のみ優勝者にチャンピオン・カーニバルへの出場権が与えられた)が、若手にとってはあすなろ杯優勝が初の栄誉となることが多い。

AJ PHOENIX 編集

2016年に開催していた若手主体興行。大日本プロレス主催の若手主体興行「D-RIZE」と隔月で交互に開催(奇数月が大日本主催、偶数月が全日本主催)[73]。12月20日の「AJ PHOENIX vol.6」をもって一区切りとすることになった[74]。試合会場は常時新木場1stRINGで行われた。

NEW AGE CHRONICLE-Z 編集

ライジングHAYATOが提唱し、プロデュースする若手主体興行。出場選手はキャリア10年未満に限られるが、年齢や所属団体は問わない。

2023年10月5日に第1回大会が開催され[75]、以降も継続して開催されている。

他団体との交流 編集

1972年 - 2002年 編集

  • 全日本の旗揚げ当時、日本プロレスはまだ健在で参加選手が足りないこともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も1970年代末まで国際プロレスとは交流を持ち、1977年から1978年にかけては対抗戦形式のシリーズも開催された[76]
  • ライバルである新日本との交流はほとんど行われず、わずかに東京スポーツ主催の「プロレス夢のオールスター戦」があるだけだった。その後、新日本から離れた長州らジャパンと提携して交流を持つも、ジャパン崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF共催)などの交流があったものの、天龍らの離脱と猪木の新日本復帰(会長就任)後の意向により、その後は途絶えた。
  • プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保っていた。
  • しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。1996年9月11日のUWFインターナショナル神宮球場大会に川田利明を派遣し高山善廣との対決が組まれ、他団体交流の契機となった。その後、1997年9月28日のFMW川崎球場大会に小橋健太とマウナケア・モスマンが出場し、ハヤブサ・みちのくプロレスの新崎人生のタッグと対戦している[77]
一方で全日本の興行にも、元新日本所属であった藤原喜明ドン荒川(いずれも参戦時点ではフリー)が全日本に参戦し、さらにハヤブサ、新崎人生、WARを主戦場としていた「冬木軍」の邪道外道、Uインターの高山、垣原賢人と全日本に参戦する団体所属外の選手は少しずつ増えていった[注釈 25]が、交流の基本路線として「他団体の選手を全日本に招請する」方針であり、Uインター、みちのく、FMW以外の外部団体に全日本所属選手が上がることはほとんど無かった。全日本の興行にも他団体の誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手だけが僅かながら出場できた。
一方で全日本プロレスを離脱した選手の復帰は「裏切り者は許さない」とする方針で、馬場の存命中は一切行われなかった。ただし、大仁田の弟子であるハヤブサ、冬木弘道の「冬木軍」所属である邪道、外道のように、離脱選手の弟子(格)であっても実力が認められれば、受け入れている。
  • 馬場没後、三沢が社長に就任して以降は積極的な団体交流を打ち出して、新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、馬場の妻である馬場元子を含めたフロントとの対立もあってあまり積極的な交流には至らなかった。、三沢らの大量離脱に際しては、選手の穴埋めを図るために、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、さらには対抗団体である武藤敬司、蝶野正洋など新日本の選手、インディペンデントの選手が一気に参戦するようになった。

2003年 - 2012年 編集

  • 武藤が社長就任直後から交流していたプロレスリングZERO-ONEとの全面戦争が勃発、橋本が奪った三冠ベルトの奪還をねらう全日勢などの熱い戦いが繰り広げられた。その後、三冠王者になった川田はシングルマッチを経験した橋本、小川直也とタッグを結成してハッスルに参戦。
  • 2004年には、ハッスルのリングで三冠ヘビー級選手権試合が行われた。グレート・ムタ、小島、カズもスポット参戦。「KAIENTAI DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦。外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期から、試合前に前説を行い、以後、他の選手が前説を行う形が定着している。
  • 武藤がTNAとの業務提携のため単身渡米し、お互いの選手派遣、若手選手の交換留学などを実現させている。また武藤が世界中のプロレス団体に参戦するなどして、気に入った選手に直接オファーを出したり、選手から参戦を直訴されることも多くなっている。
  • 全日本を離脱した三沢が社長として旗揚げしたノアとは、お互いの方針から交流がなく絶縁とも言われたが2004年7月、武藤と三沢のタッグマッチが行われて試合後に小島が三沢にシングルマッチでの対戦を直訴して、三沢が4年ぶりに古巣に参戦。その後10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では武藤と三沢がタッグを組んだ。武藤の新日本脱退、全日本の社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため注目された。
  • 2005年8月と10月、「WRESTLE-1 GP」が開催。全日本からムタ、諏訪間(現:諏訪魔)、ノアからは三沢、小川良成、秋山が参戦したが、両団体の選手が絡むことはなかった。
  • 2006年佐々木健介のデビュー20周年興行に全日本、ノアが協力。健介とのトークで出場した武藤と小島が、試合後に健介とタッグを結成した小橋とリング上で握手している。小島は小橋のことを今でも尊敬する人物の1人として挙げている。
  • 2008年、丸藤正道が参戦して土方隆司を破って世界ジュニアヘビー級王者になると近藤との試合では年間最高試合賞を獲得。
  • 2009年2月6日、カズとの選手権試合では興行史上初めてジュニアヘビー級の選手権試合がメインで行われた。その後、三沢が急逝。小島の呼びかけにより、小橋が古巣に参戦して対戦。その後、三沢追悼興行に武藤が参戦して田上明とタッグを結成して小橋&高山善廣組と対戦。
  • 2003年以降、新日本との交流を打ち出して2005年には新日本の提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になったが、5月に天山に敗れてIWGPヘビー級王座から転落。翌年には新日本プロレスG1 CLIMAX2006に、5年ぶり7度目の出場をしたが、決勝で天山に敗れて準優勝に終わった。その後、小島と天山は共闘することになり、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では、2003年1月4日以来のテンコジを復活させて優勝を果たした。
  • 2007年1月4日、新日本の東京ドーム大会に全面協力することを発表。IWGPヘビー級王座に太陽ケアが挑戦、また三冠ヘビー級王座に新日本の永田裕志が挑戦するタイトルマッチが行われた(双方王座防衛)。また武藤&蝶野組対天山&小島組という団体の垣根を越えた新旧世代のタッグマッチがあり、試合後、およそ8年ぶりのタッグを結成して勝利した武藤と蝶野が、闘魂三銃士の同胞だった橋本真也の生前の姿がスクリーンに映されトレードマークだった白い鉢巻を掲げるセレモニーがあった。
  • 2008年1月4日、東京ドームでグレート・ムタが参戦して後藤洋央紀と対戦。4月には武藤が中邑真輔に勝利してIWGPヘビー級王者になった。7月には欠場中の小島が新日本のリングに参戦して天山を救出。テンコジを復活する形になり、そのままG1に参戦を表明。
  • 8月31日、全日本の興行で初めてIWGPヘビー級選手権試合を開催。王者である武藤がG1 CLIMAX優勝者の後藤洋央紀に勝利して防衛に成功。小島と天山はその後、新日本のG1タッグリーグ戦、全日本の世界最強タッグリーグ戦でダブル優勝を果たした。
  • 10月に行われた蝶野のデビュー25周年記念試合で、蝶野&武藤&小橋組対中西&小島&秋山組のメジャー3団体による豪華な6人タッグマッチが実現。
  • 2008年からは女子プロレスラーの参戦も主に地方巡業で見られるようになっている。一方で、同じく横浜に道場を置いていたNEO女子プロレスに小島が参戦。
  • 2009年3月、新日本、全日本、ノアの3団体でプロレスラーの共通ライセンス構想を発行する構想も浮上するなど良好な関係を築いていたが、2010年6月に全日本が一方的に同構想から離脱したことに新日本とノアが反発して全日本は「ライセンス構想と選手の交流は別の話」、「鎖国しているわけではないので来る者は拒まず」との姿勢を打ち出しているものの以後、新日本とノアは態度を硬化させ、特にノアとの交流は一時完全に途絶えた[78]。一方で関西を地盤とする準メジャー団体のDRAGON GATEとは2011年に共通の放送局であるGAORAの開局記念番組として「スーパーファイト2011」を開くに至った。
  • 2011年3月11日東北地方太平洋沖地震が発生したため、「被災者へのチャリティー目的などでメジャー団体が一致団結する必要がある」との認識から新日本、ノアとの関係が改善。4月のチャンピオン・カーニバルに新日本から永田裕志、ノアから秋山が参戦することが決定するなど、両団体との交流が復活した。
  • 10月23日、両国国技館で三冠ヘビー級王座はノアの秋山、世界タッグ王座はAAAダーク・オズ&ダーク・クエルボ世界ジュニアヘビー級王座DDTプロレスリングケニー・オメガアジアタッグ王座大日本プロレス関本大介&岡林裕二へ、史上初めて4つのタイトル全てが同日に他団体へ流出。
  • 2012年7月1日、共に旗揚げ40周年を迎える新日本プロレスとの合同興行「サマーナイトフィーバー in 両国 WE ARE PRO-WRESTLING LOVE!」を両国国技館で開催。

2013年 - 2014年 編集

  • 前述の通り、白石が自身のFacebookを通じて他団体に対して挑発的な態度を取り続けた結果、新日本プロレス会長の木谷高明、武藤らが猛反発をして木谷は東京スポーツのインタビューで全日本との絶縁を宣言。一連の騒動が後に分裂騒動に発展した。また、ノアと決別する形で退団したバーニングの5人が全日本に所属したため、ノアとの関係も微妙なものとなり交流は行われていない。他にも、プロレスリングZERO1、大日本なども白石の「鎖国」発言を機に交流相手をWRESTLE-1に鞍替えした。新体制移行後に交流している団体はDDT、DRAGON GATE、KAIENTAI DOJO、プロレスリングFREEDOMSIGFなどが挙げられる。その一方でフリー選手などが参戦して選手層を埋めている。なお、白石のFacebookは後に閉鎖されてブログへ移行となった。ブログへ移行後も新日本、ノア、WRESTLE-1、IGFへの挑発的な態度を繰り返していたが、白石のブログ自体は2015年5月以降更新が途絶えている。
  • 秋山体制に移行してからは、曙が再びZERO1に参戦するようになったが新日本、ノアとの交流は再開せず、分裂時のいきさつからWRESTLE-1との交流も行われていなかった。
  • 2014年末、ユニオンプロレスから福田洋が半年間のレンタル移籍することになっていたが、福田の怪我により一旦白紙に戻った。

2015年以降 編集

  • 2015年、諏訪魔がIGFの藤田和之との対戦を熱望。IGFの大阪大会に諏訪魔単身で乗り込みアピールしたが、当のIGF側からは交流をはぐらかされた。大日本に関しては新日本やノアと同じく交流が途絶えていたが、2015年12月20日の大日本の興行に諏訪魔が出場して交流を再開している。
  • 2016年、大日本とは再び交流を行っており全日本には関本、岡林、橋本和樹が参戦して大日本側には諏訪魔を筆頭に数名が参戦した。さらには両団体の若手主体興行を月1回、交互に開催している(全日本側の興行タイトルは「AJ PHOENIX」、大日本側は「D-RIZE」)。自主興行の減少をカバーするため、過去のトラブルから交流が途絶えている新日本、ノア、WRESTLE-1を除く団体との交流が積極的に行われていた。
  • 2016年5月4日のWRESTLE-1後楽園ホール大会で、武藤が闘いたい相手として秋山を指名。8月11日のWRESTLE-1横浜文化体育館大会で武藤とタッグで対決。7月20日には、新日本とノアの共催による第6回「スーパーJカップ」に青柳優馬が出場している。これ以降、両団体の交流は無かったが、2017年4月13日のライオンズゲートに青柳優馬と岩本煌史が出場し、邪道&外道と対戦。新日本との交流が再開されている。
  • ノアとは、直接的な交流がない状況が続いていたが2018年のチャンピオンカーニバルに丸藤正道が出場し、流動的ではあるが交流が再開された。これで、ほぼ全てのプロレス団体との交流が行われるようになった。
  • 2019年には馬場の没20年追善興行、2021年には23回忌追善興行が行われ、さまざまな団体との交流が行われた。

2020年以降 編集

  • 2021年に旗揚げされたGLEATの興行に、全日本選手が不定期に参戦。
  • 2022年4月15 - 16日に行われる後楽園ホール60周年記念「還暦祭」で、16日には「50周年 新日本プロレス+全日本プロレス」が開催された[79]
  • 2023年3月、全日本プロレス主催によるGLEATとの全面対抗戦が開催された。
  • 6月、新日本とノアとの合同興行「ALL TOGETHER AGAIN」が開催された。以降、宮原健斗が新日本プロレスに初参戦を果たす。
  • 8月、ノアのリーグ戦「N-1 VICTORY」に安齊勇馬が初出場。
  • 12月31日、WWE所属のデイビーボーイ・スミス・ジュニアが参戦[注釈 26]。翌2024年1月3日にはWWE・NXT所属のチャーリー・デンプシーの三冠挑戦が発表され[80]、WWEとの交流が本格化。

シリーズ名 編集

ジャイアント馬場体制から定着していたシリーズ名が、武藤体制より一部変更されている。正月と10月に開催する旗揚げ記念大会「ジャイアント・シリーズ」は馬場のリングネームである「ジャイアント馬場」に、「シャイニング・シリーズ」は武藤の必殺技である「シャイニング・ウィザード」に、それぞれなぞらえていた。また「ホールドアウト・ツアー」は、武藤の入場曲の曲名にちなむ。

武藤の退団後は、武藤にちなむシリーズ名は改称された(当時社長の秋山にちなんだ名称にもしていない)。

なお、年始興行は1月2日・3日の後楽園ホール大会が恒例となっている。

  • 1月:新春ジャイアント・シリーズ→新春シャイニング・シリーズ→ニューイヤーウォーズ
  • 2月 - 3月:エキサイト・シリーズ
  • 3月 - 4月:ホールドアウト・ツアー→ドリームパワー・シリーズ、チャンピオン・カーニバル
  • 5月 - 6月:スーパーパワー・シリーズ→ライズアップ・ツアー→スーパーパワー・シリーズ、ダイナマイト・シリーズ
  • 7月 - 9月:サマーアクション・シリーズ(パート1、パート2)→サマーアクション・シリーズ、サマーインパクト、スーパーデラックスシリーズ(2021年 - )
  • 10月:ジャイアント・シリーズ→シャイニング・シリーズ→アニバーサリー・ツアー→ジャイアント・シリーズ(2014年 - 2015年)→旗揚げ記念シリーズ
  • 11月 - 12月:世界最強タッグ決定リーグ戦

2021年より、大田区総合体育館大会はタイトル戦が多く組まれる興行「CHAMPION'S NIGHT」として、シリーズを問わず開催されている。

タイトルホルダー 編集

全日本プロレスの王座
タイトル 保持者 歴代
三冠ヘビー級王座 中嶋勝彦 第71代
世界タッグ王座 諏訪魔
鈴木秀樹
第98代
世界ジュニアヘビー級王座 田村男児 第67代
アジアタッグ王座 大仁田厚
To-y
第122代
GAORA TV チャンピオンシップ 立花誠吾 第25代
全日本プロレスTV認定6人タッグ王座 諏訪魔
尾崎魔弓
雪妃魔矢
第7代
全日本プロレスのリーグ戦・トーナメント戦
タイトル 覇者 年代
チャンピオン・カーニバル 芦野祥太郎 2023年
世界最強タッグ決定リーグ戦 中嶋勝彦
大森北斗
2023年
王道トーナメント 小島聡 2023年
Jr. BATTLE OF GLORY 田村男児 2023年
Jr. TAG BATTLE OF GLORY 石田凱士
鈴木鼓太郎
2023年

所属選手・主要参戦選手 編集

本隊 編集

NEXTREAM 編集

Evolution 編集

GUNGNIR OF ANARCHY 編集

VOODOO-MURDERS 編集

New Period 編集

フリー・他団体参戦選手 編集

※2024年に参戦した選手のみ

男子選手 編集

フリー
暗黒プロレス組織666
イーグルプロレス
GLEAT
大日本プロレス
ダブプロレス
DDTプロレスリング
ドラディション
パンクラスMISSION
プロレスリングA-TEAM
MoveOnプロレスリング
MLW

女子選手 編集

フリー

男子外国人選手 編集

フリー
NXT
MLW

女子外国人選手 編集

フリー

スタッフ 編集

名誉レフェリー 編集

レフェリー 編集

リングアナウンサー 編集

  • ライチ聖矢(フリー)

PWF会長 編集

選手会長 編集

役員 編集

  • 第2代代表取締役社長 : 福田剛紀(2019年7月 - )
    • 社外取締役 : 十枝利樹(2019年7月 - )
    • 専務執行役員 : 諏訪間幸平(2021年3月 - )

歴代タイトル 編集

歴代リーグ戦・トーナメント戦 編集

歴代所属選手 編集

歴代ユニット 編集

歴代タッグチーム 編集

歴代スタッフ 編集

  • 海野宏之(レフェリー)
  • 川崎信男(レフェリー)
  • 桜井公正(レフェリー)
  • ジェリー・マードック(レフェリー)
  • 西永秀一(レフェリー)
  • 新田勝平(レフェリー)
  • 福田明彦(レフェリー)
  • 村山大値(レフェリー)
  • 山本義浩(レフェリー)
  • ボンバー斉藤(レフェリー)
  • 李日韓(レフェリー)
  • 阿部誠(リングアナウンサー)
  • 難波信二(リングアナウンサー)
  • 原軍治(リングアナウンサー)
  • 奥田亮(リングアナウンサー)
  • 木原文人(リングアナウンサー)
  • 内田雅之(代表取締役)
  • 下地啓司(営業部長)
  • 南雄介(営業部)
  • 黒田亜紀子(営業企画)
  • 鈴木隆弘(広報部)
  • 高林大輔(広報部)
  • 飯橋一敏(営業部)

歴代PWF会長 編集

歴代選手会 編集

選手会長 編集

副会長 編集

歴代役員 編集

全日本プロ・レスリング株式会社 編集

  • 初代代表取締役社長 : 馬場正平(1972年10月 - 1981年12月)
    • 取締役 : 百田義浩(リングアナウンサー兼任)
  • 第2代代表取締役社長 : 松根光雄(1982年1月「日本テレビ」から出向 - 1989年3月)
    • 代表取締役会長 : 馬場正平
    • 専務取締役 : 村上義昭
    • 取締役 : 百田義浩、木村誠宏(経理部兼任)
  • 第3代代表取締役社長 : 馬場正平(1989年4月 - 1999年1月)[注釈 27]
  • 第4代代表取締役社長 : 三沢光晴(1999年5月 - 2000年6月)
  • 第5代代表取締役社長 : 馬場元子(2000年7月 - 2002年9月)
    • 取締役 : 馬場幸子、渕正信、川田利明、三橋祐輔
  • 第6代代表取締役社長 : 武藤敬司(2002年10月 - 2011年6月)
    • 取締役(2002年 - 2004年) : 渕正信、川田利明、和田京平、三橋祐輔、渡辺秀幸(2002年2月「新日本プロレス」から移籍)、青木謙治(2002年2月「新日本プロレス」から移籍 - 2005年10月)、高橋英樹(2002年2月「FMW」から移籍 - 2005年10月)
    • 取締役(2005年 - 2011年) : 内田雅之林和広
  • 第7代代表取締役社長 : 内田雅之(2011年6月 - 2012年11月)
    • 取締役 : 武藤敬司、林和広

全日本プロレスリングシステムズ株式会社 編集

  • 初代代表取締役社長 : 内田雅之(2012年11月 - 2013年5月)
    • 取締役副社長 : 三阪輝(2012年11月「スピードパートナーズ」から出向)
  • 第2代代表取締役社長 : 白石伸生(2013年6月 - 2013年8月)
    • 取締役 : 三阪輝、井上博太(2013年6月「スピードパートナーズ」から出向)、佐藤智彦(2013年6月「スピードパートナーズ」から出向)
    • 取締役相談役 : 渕正信
  • 第3代代表取締役社長 : 井上博太(2013年9月 - 2014年6月)
    • 取締役 : 三阪輝、佐藤智彦
    • 取締役相談役 : 渕正信

オールジャパン・プロレスリング株式会社 編集

  • 初代代表取締役社長 : 秋山潤(2014年7月 - 2019年7月)
    • 代表取締役副社長 : 笹原美喜夫(ケーブルテレビ山形
    • 取締役会長 : 吉村和文(ケーブルテレビ山形)
    • 専務取締役 : 諏訪間幸平(2014年7月 - 2015年11月)[52]
    • 取締役 : 曙太郎(2014年7月 - 2015年11月)、大森隆男(2016年1月 - 2019年7月)
    • 取締役相談役 : 馬場元子(2014年7月 - 2015年10月)
    • 取締役ゼネラルマネージャー : 秋山潤(2019年7月 - 2020年1月)

故人 編集

プロレスラー 編集

スタッフ・役員 編集

  • ジョー樋口(レフェリー)(2010年死去)
  • 仲田龍(リングアナウンサー)(2014年死去)
  • 馬場元子(代表取締役社長、取締役相談役)(2018年死去)
  • 百田義浩(リングアナウンサー兼取締役)(2000年死去)

来日外国人選手 編集

プロレスラー 編集

格闘家 編集

来日外国人関係者 編集

レフェリー 編集

  • ウォーリー堤
  • ケン・ハーバー
  • ジミー・タナカ
  • ジョージ・マッコーリー
  • ダニー・ブレッチェス
  • ハル佐々木
  • リチャード・ムーディー
  • ルー・テーズ

マネージャー 編集

プロモーター 編集

マスコットキャラクター 編集

  • ジェープ
トラがモチーフのキャラクター。2013年12月25日フジテレビの番組「いらこん」で行われた企画「全日本プロレスイメージキャラクター募集コンテスト」から誕生[87]。デザインはイラストレーターのヤム。

応援大使 編集

2016年5月25日に就任。試合前にリング上でパフォーマンスを披露し会場を盛り上げた。グループの解散に伴い、2017年6月11日の後楽園ホール大会を最後に応援大使としての役目を終えた[88]。解散後、元メンバーの有田ひめかがプロレスラーになるため全日本プロレスの道場に通って練習を積み、2017年12月24日Beginning新木場1stRING大会でプロレスデビューを果たした。2018年1月25日、全日本プロレス新木場1stRING大会で「有田ひめか全日本プロレスデビュー戦」として試合が行われた[89]

試合中継 編集

放送中の番組
終了した番組

関連番組 編集

放送中の番組
終了した番組
  • ゼンニチ王道通信(FIGHTING TV サムライ、サムライ2)
  • ボクら全日王道クラブ(FIGHTING TV サムライ、サムライ2)
  • 全日本プロレスイレブン(BS11[95]

関連組織 編集

全日本プロレスジュニアレスリングクラブ
2021年4月1日、中学生までの子供向けレスリングクラブとして発足。諏訪魔が代表兼コーチを務めている。前身は諏訪魔が運営していた「横浜デビルズジュニアレスリングクラブ」。

関連書籍 編集

広告スポンサー 編集

#ajpw旗揚げ記念シリーズ2023時点

オフィシャルスポンサー 編集

  • カーベル
  • 株式会社パティオ
  • 稲垣テント・看板(稲垣興業)
  • GUARD(櫻井興業)
  • 大隅興業
  • 高岡屋(株式会社高岡商店)
  • CARO RESORT(株式会社アットエフ)
  • Team AED
  • 株式会社ステイタス
  • 株式会社Another works
  • 夢かなえます!PROJECT(株式会社ワンダー)
  • エス・イー・シーエレベーター

オフィシャルプレミアムサポーター 編集

  • 合名会社加納屋材木店
  • 人材派遣株式会社Y'S
  • 株式会社茂商事
  • エネワン(株式会社サイサン)
  • 株式会社コクホーシステム
  • 有限会社玉空

オフィシャルサポーター 編集

  • 株式会社恒和プロダクト
  • 株式会社PRO-SEED
  • 社会保険労務士 齋藤晃史事務所

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ この発表の席上、日本テレビの運動部長であった松根光雄(後に全日本プロレス社長となる)は「日プロの幹部は常識のある社会人かと思ったが、子供みたいな感覚しかない。こちらが馬鹿負けしたので中継から手を引きました」と痛烈に日プロ幹部をこき下ろしている。日本テレビは打ち切り後の当面は力道山、馬場、猪木などの過去の名勝負集などでつなぎ、7月から刑事ドラマである『太陽にほえろ!』を同枠でスタートさせた。
  2. ^ 日本テレビは日プロ中継打ち切り後は、猪木が旗揚げした新日本プロレスの中継に動いていたともされており、新日本は馬場とも関係のあった元日本プロレス専務の岩田弘(三ツ矢乳業社長)をフロントとして迎え入れるなどの準備もなされていた。このような背景も馬場の独立を促したとされている[6]
  3. ^ 日本プロレスはフリッツ・フォン・エリックら大物外国人選手やアメリカのプロモーターに対し、全日本プロレスへの協力をしないよう圧力をかけ、実際にエリックは日プロ最末期のシリーズ(「アイアンクロー・シリーズ」)に特別参加したため、ダラスルートからの招聘が一時不可となったり、日本プロレスのブッキングを担当していたミスター・モトも当初は全日本への協力を約束していたものの、直前になり全日本への協力を断るなどしたが、馬場がアメリカでの武者修行時代に選手やプロモーターとの信頼関係が構築出来ていたことや、日本テレビが全面的にバックアップする姿勢を見せたたこと、そしてアメリカでも発言力の強かったドリー・ファンク・シニアが協力する姿勢を示したため招聘ルートの妨害は失敗している。エリックも日プロの最終シリーズに参戦して義理を果たした後に、全日本に参戦している。
  4. ^ 会場使用の問題も日本テレビがバックアップし、日本テレビが借りた会場で全日本プロレスを招聘する形にしたため、こちらも失敗している。
  5. ^ 参戦していた選手の中では肥後宗典(当時のリングネーム:本郷篤)が馬場の目に留まり、そのまま全日本に移籍を果たしたほか、当時は前座選手だった鶴見も、馬場からレスリングセンスやファイトが評価を受けていて、国際プロレス崩壊後、海外遠征などを経た後に全日本にフリーで定着参戦を果たしている。
  6. ^ 1978年11~12月を境に、国際は徐々に交流先を全日本から新日本へシフトし、翌1979年2月5日のの新日本・国際両団体主導による「日本レスリング・コミッション」設立[8]で、全日本と国際の決裂が決定的となった。一説では馬場と吉原の代表同士の間で、何らかの金銭的なトラブルがあったことも原因とされる[9]
  7. ^ 大木金太郎、高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)、上田馬之助、グレート小鹿松岡巌鉄ミツ・ヒライ桜田一男(後のケンドー・ナガサキ)、羽田光男(後のロッキー羽田)、伊藤正男の9名。
  8. ^ 小鹿によれば、大木は本気で「対等合併」と信じ切っており、日プロ社長であった芳の里淳三といった関係者やレスラーからも「(実態は)吸収合併」であることを大木に進言する者はなかったとしている。
  9. ^ あからさまに差をつけられた事に対しての不満があったほか、上田によれば最終参戦となった蔵前国技館大会で、元日プロレフェリーの沖識名の引退セレモニーが行われたが、全日本サイドが売上から沖に餞別を一切渡さなかった事への義憤(代わって上田や松岡が沖に餞別を渡したとされる)も離脱の契機になったとしている(上田馬之助_(プロレスラー)#人物も参照)。上田と松岡は日本テレビとの3年契約が残っていたため、その間は日本の他団体に参戦することができず、日本プロレスリングコミッション事務局長であった門茂男の伝手を頼り、国内で新団体設立も画策したが資金的な面で頓挫したことで、アメリカに活路を求める形となった[10]が、ほどなく上田と松岡の間に亀裂が生じ、松岡はプロレスラー廃業に追い込まれている[12]
  10. ^ 大木はその後、猪木との対戦を要求して1974年10月から新日本に参戦し、日プロ以来の因縁のある猪木や坂口との対決を実現させた[13]。さらに1975年からは今度は馬場との対戦を要求し、同年10月には馬場との一騎打ちが実現した[14]後も愛弟子のキム・ドク(タイガー戸口)と組み、馬場&鶴田組との「日韓師弟タッグ対決」は、当時の全日本でも看板カードの一つとなった。大木は1979年頃まで全日本に参戦した後、1980年2月から一時国際プロレスに所属したが、同年11月に国際離脱後は再び全日本に戻り、1982年のセミリタイアまで活動している。
  11. ^ 先にクーデター騒動で新日本を離脱していた初代タイガーマスク(佐山聡)のマネージャーであるショウジ・コンチャが、初代タイガーマスク(佐山)の全日本参戦に向けて馬場と接触していたが、ギャラが高額だったことも支障となり、その後コンチャと佐山の関係が決裂して、佐山は(第1次)UWFに参戦した事から全日本参戦は立ち消えとなっていた。馬場が大塚との雑談でこの話が出たことで、大塚側が「2代目タイガー」の全日本登場を提案し、話が進んだとされている[20]
  12. ^ ほかに栗栖正伸保永昇男仲野信市新倉史祐。さらに新人で新日本でデビューしたばかりの笹崎伸司も加わっている。
  13. ^ ジャパンプロレス勢は全日本・日本テレビとそれぞれ契約をしており、事実上は全日本の傘下団体という扱いであった。また、1985年からジャパンプロレスを介する形で全日本に参戦していたスーパー・ストロング・マシーンヒロ斎藤高野俊二の「カルガリー・ハリケーンズ」もジャパンプロレスと同様に全日本・日本テレビと契約していた。
  14. ^ その後「カルガリー・ハリケーンズ」参戦の影響で選手層が余剰となったため、「国際血盟軍」のうち木村と鶴見五郎以外の3名(剛竜馬・アポロ菅原・高杉正彦)は整理解雇されている。剛らの解雇には冗員整理のほかに、剛らが全日本のファイトスタイルを否定するような振舞いをしばしば行った事で、馬場らの心証を損ねたことも遠因とされている。
  15. ^ 二人が活動拠点としていたカナダ・カルガリーに、WWF(当時、新日本と提携していた)が進出して来た事に不満を持ったうえでの移籍としているが、実際の背景として、カルガリーに定着し日本マットとのブッキング役となっていたミスター・ヒト(安達勝治)が、これまで海外修行先などで提携してきた新日本に対する待遇の不満から関係が悪化し、ドリー・ファンク・ジュニアを経由して全日本に接近したうえでの引き抜きであったとされる[21]
  16. ^ 田上は大相撲廃業直後にプロレス入りの意向を示したことで、日本相撲協会との更なる関係悪化に配慮した馬場がジャパンプロレスに入団させる形でクッションを設けた。既に田上の転向時点でジャパンプロレスは事実上興行機能は失っていたため、あくまで名義上の所属で実質全日本の所属選手と変わらなかった。その後、1987年10月にジャパンプロレスが正式に解散した事により、田上も翌1988年1月より全日本のマットでデビューとなった。
  17. ^ ただし、タイガーを含めて所属選手の怪我が続出したことなどで目立った成果を上げることなく、馬場の「全然決起していない」という鶴の一声により、結成から僅か1年で解散させられている[26]
  18. ^ 馬場の存命時には1990年4月の新日本・全日本・WWF合同興行の「日米レスリングサミット」でも、馬場をはじめ所属選手の数名が東京ドームに参戦している。
  19. ^ のちに川田は馬場亡き後、全日本にはフリーとして上がっており専属契約はしていないことを告白しているが、2004年までは全日本の役員に名を連ねていた。
  20. ^ 武藤の入団には馳浩の勧誘もあったとされている。新日本側の余波として、武藤移籍の引責の形で現場責任者であった長州力の解任や、馬場元子から引き抜きを持ちかけられたとして、新日本の企画宣伝部長であった永島勝司が猪木の不興を買う形で新日本からの退社に追い込まれている。武藤らの全日本移籍の余波は、その後の長州・永島らによるWJプロレス旗揚げへの伏線にもなっている。
  21. ^ 後の調査で河野真幸、稔、MAZADAは暴行に関わっていないことが明らかになったため、6月30日付で出場停止処分は解除された。
  22. ^ その後負傷による長期療養から復帰しないまま、同年末をもって退団。
  23. ^ その後、全日本と白石との関係は事実上清算されており、約10年後の2023年7月に、新規の仮想通貨発行への出資名目で美術品販売会社から1億5000万円を詐取した詐欺容疑で、白石など3名が警視庁捜査二課に逮捕されている[46]
  24. ^ 2020年1月から3月に全日本プロレスの道場に住み込みながら継続参戦しており、一時的に所属選手同然の扱いとなっていた。
  25. ^ このほか、1998年5月1日の全日本・東京ドーム大会では武輝道場北尾光司が参戦し、田上明との対決が予定されていたが、カード発表直後にキャンセルとなっている。
  26. ^ 2020年のチャンピオン・カーニバルにも参戦が発表されていた(当時はフリーランス)ものの、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により来日中止(のち大会自体も中止)となった。
  27. ^ 馬場の没後は三沢が代表取締役社長代理を務めて5月から代表取締役社長に就任している。

出典 編集

  1. ^ a b c 会社概要 - 全日本プロレス
  2. ^ 知っていれば楽しさ倍増!日本のプロレスの歴史を簡単チェック”. 【SPAIA】スパイア (2016年12月16日). 2020年11月15日閲覧。
  3. ^ 『日本プロレス70年史 昭和編』P125より。
  4. ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P104・105より。
  5. ^ 日本テレビぶちぎれ!日プロの裏切り行為でプロレス中継打ち切り【坂口征二連載#20】 - 東スポnote 2022年12月21日
  6. ^ ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.22 P16-P23より。
  7. ^ 『昭和40年男10月号増刊 昭和プロレス大全』18Pより
  8. ^ 『日本プロレス70年史 昭和編』P206より。
  9. ^ 『Gスピリッツ Vol.16』P75より。
  10. ^ a b c d ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.22 P35-P42より。
  11. ^ 全日本プロレスが日本プロレスを吸収合併…馬場がリストラしたかった3人のレスラー - 伊賀プロレス通信24時 2021年11月21日
  12. ^ 『プロレス醜聞100連発!!』140Pから141Pより
  13. ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P130・131より。
  14. ^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P134・135より。
  15. ^ ジャンボ鶴田VSアントン・ヘーシンクこそ“リアル格闘技オリンピック”だった - スポーツ報知 2021年7月30日
  16. ^ 『Gスピリッツ Vol.33』P9(2014年、辰巳出版、ISBN 477781372X
  17. ^ 幻の全日本プロレス・クーデター事件~1972 サムソン・クツワダの新団体構想 - 1970年生まれ 男のロマンBlog 2022年5月5日
  18. ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.34
  19. ^ ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.2 P58-P61より。
  20. ^ a b ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.22 P4-P13より。
  21. ^ 「全日本へ行く」ダイナマイト・キッド前代未聞の移籍宣言 本当の "仕掛け人" を担当記者が実名告白”. 東京スポーツ (2023年11月19日). 2010年8月25日閲覧。
  22. ^ 新日本プロレスVS全日本プロレス<仁義なき50年闘争史>「猪木神話復活!新日本に救世主ブロディ出現」 - アサ芸プラス 2023年5月28日
  23. ^ 『日本プロレス事件史Vol.3』P32-34より。
  24. ^ 元横綱輪島が見守る中で相撲を取るジョン・テンタ 全日入団めぐり角界が横ヤリ、馬場も怒った! - 東スポWEB 2024年1月21日
  25. ^ 新日本プロレスVS全日本プロレス<仁義なき50年闘争史>「新展開!長州と藤波が団体の垣根を越えた」 - アサ芸プラス 2023年8月6日
  26. ^ ジャイアント馬場が決起軍を強制解散「全然、決起していない」【週刊プロレス昔話】”. BBM Sports. ベースボール・マガジン社 (2022年3月20日). 2022年8月29日閲覧。
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関連項目 編集

外部リンク 編集