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大宏池会構想(だいこうちかいこうそう)とは、過去2度に亘る分裂により3分された派閥の再合流構想を指す。

宏池会系派閥編集

2008年5月の古賀派・谷垣派合流前
2008年5月の古賀派・谷垣派合流後
  • 古賀派宏池会) 62人(衆議院51人、参議院11人)
  • 麻生派(為公会) 20人(衆議院16人、参議院4人)

宏池会分裂の経緯編集

  • 1998年宮澤喜一から加藤紘一に宏池会会長の座が禅譲されることがほぼ確実となった段階で、これに不満を唱えた河野洋平に近しい議員たちがKK戦争により分派(河野本人はこれ以前に宏池会を離れており、当時無派閥)。河野系の離脱直後、加藤は宏池会会長に就任。河野は翌1999年1月に、宏池会を脱退した議員たちと共に、大勇会を結成。
    • 1995年9月の自民党総裁選橋本龍太郎が勝利)において、自民党政調会長の職にあった加藤は、現職総裁で同じ宮澤派に属していた河野への支持を明言せず、静観の姿勢をとった。しかし、加藤の側近である白川勝彦古賀誠谷垣禎一川崎二郎らは、河野ではなく橋本を支持することを逸早く表明し、公然と橋本支持に動いた。河野不利が伝えられる中、身内から離反者が大量に出たことで、河野は出馬断念に追い込まれた。加藤はその功もあってか、橋本執行部において党幹事長に就任。
    • 派閥は継承したものの、宏池会が割れた原因を作った加藤の行動に宮澤が不満を抱き、加藤の乱の際、反加藤である旨を表明する要因になったといわれている(浜田幸一は、「加藤の乱は宮澤がけしかけた」との説を述べている)。
  • 2000年の加藤の乱の際、加藤に同調しない加藤派議員の多くが、森内閣不信任案に反対票を投じる。この中には、かつて加藤の側近と言われた古賀、堀内光雄丹羽雄哉らもいた。不信任案否決後、反加藤議員は加藤の反党行為を非難し、加藤派から堀内派(後に丹羽・古賀派および古賀派)として分派。

合流構想とその展開編集

加藤の乱による加藤派分裂の直後から合流構想自体は持ち上がる。加藤個人に対する反感から離脱した河野グループにとって、堀内派(当時)と組むことに感情的な障害はないと見られたからである。さらに加藤が小里派(現・谷垣派)から離脱した頃から、3派閥による合同構想が語られるようになった。

2006年に入ると、ポスト小泉争いで清和政策研究会(当時森派)出身の安倍晋三の優位が伝えられ、3代続いて清和研からの総理総裁が誕生することが決定的となっていた。国政選挙の度に勢力を拡大し、最大派閥となっていた清和研に対抗する意味合いもあり、大宏池会構想実現が具体的に進行し始めた。既に河野グループの宮澤派離脱や加藤の乱から5年以上が経過して、感情的なしこりも薄らいできており、三派の幹部も宏池会の再結集に基本合意した。当初は大宏池会としての統一候補を出すことも模索されたが断念、谷垣派の谷垣禎一、河野グループの麻生太郎がポスト小泉の総裁選に立候補するため、9月の2006年総裁選が終わった10月頃に、三派が統一する流れとなっていた。合流への最大へのネックのひとつと見られていた河野と加藤の確執についても、元々両者の政治的思想は近く、共にハト派を自認しており、総裁選直前に、タカ派的存在の安倍への警戒感からか、宮澤派宏池会の分裂後、初めて会談を行うなど、雪解けが進んだ。

ところが総裁選では麻生・谷垣が出馬した一方、堀内派改め丹羽・古賀派は「安倍支持」を表明、更に同派のベテランである柳澤伯夫が安倍陣営の選対本部長に就任。安倍が勝利した総裁選後の人事では丹羽・古賀派からは丹羽が総務会長に就任したのに加え、4人を閣僚に送り込み、河野グループでも麻生外相が留任するなど「主流派」となったのと対照的に、谷垣派は完全に要職から外れて「反主流派」となるなど、政権との距離において宏池会系が分断される形になった。

この総裁選後、10月に丹羽・古賀派では、派閥乗っ取りに近い形で古賀が会長に就任して古賀派に、12月には河野グループが麻生派に、それぞれ衣替えがなされ、名実ともに麻生・古賀が派閥を継承することになった。しかしかつて盟友関係であったこの2人の関係の冷え込みも、その後の大宏池会構想の障害となっていく。

なお、2006年、麻生と谷垣が総裁選前後に何度か会談を持った際、麻生が谷垣に「先に(総理・総裁を)やらせてほしい」と主張したという。谷垣は年明けに、この会談があった事実と会談の簡単な内容を講演で公にし、麻生の反感をかった。また森喜朗も谷垣に苦言を呈した。

安倍内閣退陣後の2007年総裁選においては、麻生が早々に立候補を表明する一方で、谷垣派・古賀派がいち早く福田康夫支持を打ち出し、圧勝の流れを作った。しかし麻生が派閥横断的な支持を呼び掛けたのに呼応して、特に古賀派内部から麻生支持議員が多く出るなど、複雑な様相を見せた。総裁選後の党人事では谷垣・古賀がそれぞれ党四役入りして主流派となる一方で、麻生は入閣を拒否。総裁選では麻生包囲網と言われるほどに旧宏池会内部での麻生・反麻生の対立関係が明確となり、とくに麻生・古賀の関係が決定的に悪化したと報じられ、当面は大宏池会どころではなくなってしまった。その後は古賀・谷垣両派が再合流し、いわゆる「中宏池会」が実現したが、翌年の2008年総裁選では谷垣が出馬を断念して自主投票となり、少なからぬ議員がまたも麻生を支持するなど、一致した総裁候補を持てないことの弱みも露呈した。

2009年になり麻生政権の支持率が低迷する中、2月に麻生・古賀両派の幹部会合が持たれた。政権基盤の強化を狙う麻生と、麻生との関係修復や影響力回復を狙う古賀の思惑が一致した形だが、「大宏池会」の話題も出たという。ただし、麻生の留守番役を務める麻生派の中馬弘毅座長は会合の翌日に合流論を否定した。両派の接近に警戒感を持つ他派閥も多く、合流は実現しなかった。その後の総選挙で自民党は大敗、下野し、麻生は退陣。後継総裁に谷垣が就任した。

2012年総裁選での古賀による現職総裁谷垣の再選不支持により、旧谷垣派が宏池会より離脱し中宏池会が瓦解。また、麻生派領袖の麻生も、総選挙敗北後の野党総裁として、自民党分裂を阻止し、政権奪還目前までこぎつけた谷垣ではなく、幹事長の石原伸晃を支持した古賀らを、「自分を要職に就けてくれた人(谷垣)を裏切り、出馬辞退に追い込んだ石原のような人間を支持する人の神経が理解できない」と痛烈に批判(麻生は谷垣の再選を望んでおり、立候補した際には支援するつもりでいた)し、再登板を目指す安倍晋三の支持を表明した。

総裁選終了後、中宏池会より離脱したメンバーで正式に谷垣政策集団が発足。宏池会でも、古賀が一連の騒動の責任を取る形で会長を降り、岸田文雄が跡を継いだ。時を同じくして、総裁に返り咲いた安倍が民主党政権解散に追い込み、政権を奪還する。

この総選挙で、石原を支持した古賀、森喜朗が引退。また、新政権では、麻生、谷垣、さらには、町村信孝を除く総裁選立候補者全員が閣僚または党幹部に就任した。

その後、2016年12月に麻生派の幹部と谷垣政策集団の幹部が岸田と相次いで会談。麻生派は2017年7月、山東派や、谷垣政策集団の一部と合流して志公会となり、党内第二派閥となった。構想は浮上しているものの、岸田派に警戒感が強いとされ[1]、具体的な動きにはなっておらず、現在では絶望的な状況となっている。

合流による効果編集

合流が実現すれば、2008年5月当時、衆議院66人、参議院15人(総勢81人)と、党内勢力では津島派を上回り、最大派閥の町村派に匹敵する大派閥になる算段であった。無派閥議員の中にも、加藤の乱による分裂の際、いずれのグループにも参加しなかった議員もいるため、無派閥議員の参加や今後の国政選挙による伸長次第では、かつての宮澤派時代のように党内最大派閥の座に返り咲くことも見込まれた。

町村派(清和政策研究会) 88人(衆議院61人、参議院27人)
大宏池会 82人(衆議院67人、参議院15人)
津島派(平成研究会) 70人(衆議院47人、参議院23人)

他方で、小選挙区制の導入により、幹事長への権限が集中するとともに、かつてのような派閥の機能は失われ、数がそのまま影響力につながっていくかは未知であった。小派閥の長である麻生が総裁の座を得られたのは、「選挙の顔」としての人気を期待されたからであり、自らも総裁選で派閥横断的な支持を訴えた。

また、三派の中では最大の古賀派が主導して合流が進められると、小派閥である谷垣派や麻生派にとっては吸収合併される側面が強いため、二の足を踏んでいる側面もあった。現に「中宏池会」実現の過程では総裁選出馬経験もある谷垣を、明確な総裁候補と位置づけることが出来ず、谷垣派内には不満の声も上がった。麻生派にとっても事情は同じであったが、しかしひとたび麻生が総理総裁となった以上、今後は合併による政権基盤強化という効果が期待できる。こうして、2009年に再び大宏池会構想が取り沙汰されるようになっていった。

完全合流に至った場合の主なメンバー編集

2008年9月当時

関連項目編集

注釈編集