大瀬甚太郎

日本の教育学者

大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日慶応元年12月24日) - 1944年昭和19年)5月29日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本教育学者文学博士は金城。

大瀬 甚太郎
おおせ じんたろう
人物情報
別名 金城(
生誕 (1866-02-09) 1866年2月9日慶応元年12月24日
加賀国金沢(現・石川県金沢市
死没 (1944-05-29) 1944年5月29日(78歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 帝国大学文科大学
学問
研究分野 教育学
研究機関 高等師範学校東京高等師範学校
東京文理科大学
学位 文学博士(1920年・日本)
称号 東京文理科大学名誉教授(1934年)
主要な作品 『教育学』(1891年)
『欧州教育史』『続欧州教育史』(1904-1907年)
学会 東京文理科大学教育学会
テンプレートを表示

近代日本における体系的な教育学の樹立者、西洋教育史学の開拓者として評価されている。

来歴

編集

現在の石川県金沢市生まれ。加賀藩士族大瀬直温の子。上京後、進文学舎東京大学予備門を経て、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科に入学。文科大学の同級生には大西祝渡部董之介三上参次(国文学科)、谷本富選科生)がいる。卒業後、同大学院に進学し心理学を専攻する。1891年第五高等中学校に赴任、嘉納治五郎が同校の校長だった時期と重なっている。在職中に文部省留学生に任じられ、1893年から97年までヨーロッパへ留学する。ドイツに2年間、フランスに1年間、イギリスに2カ月間滞在し、パウルゼンビュイッソンなどのもとで教育学を学んだ。帰国直後の1898年1月、高等師範学校教授に任じられる。以後、定年を迎える1934年まで奉職。1929年には急逝した三宅米吉の後を受けて、第2代の東京文理科大学学長となった。 妻は関場不二彦の妹[1]

業績 

編集

日本の教育学史上において、第一に体系的な教育学の樹立者として、第二に西洋教育史学の開拓者として評価されるのが一般的である。

第一について、とりわけ明治後半期において、それまで支配的だったヘルバルト主義と、当時台頭しつつあった社会的教育学をいち早く「折衷」した点は、大いに評価されるべきものである。

影響

編集

東京帝国大学の教育学講師として、また(東京)高等師範学校の教授(教育学科及び研究科の主任)として、数多くの教師や教育学者を育てた。帝大講師時代の教え子として、例えば吉田熊次小西重直春山作樹林博太郎を挙げることができる。東京高師の出身者はみな、多かれ少なかれ、大瀬の教育学に影響を受けていると言える。

その体系的な教育学はたとえば篠原助市へと、その西洋教育史研究はたとえば梅根悟へと引き継がれていった。

栄典

編集

著作

編集
  • 「ヘルバルト以後の本邦教育界」(国民教育奨励会編纂 『教育五十年史』 民友社、1922年10月 / 国書刊行会〈明治教育古典叢書〉、1981年4月 / 日本図書センター、1982年1月)
  • 「学校時代の思ひ出(その十一) : 我が国最初の運動会」(『帝国教育』第610号、帝国教育会、1932年9月)
  • 「回顧六十年」(『教育』第3巻第1号、岩波書店、1935年1月)
著書
訳書

出典

編集
  1. ^ 秦温信『北辰の如く関場不二彦伝』北海道出版企画センター、2011年。ISBN 978-4-8328-1103-4 256頁。
  2. ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
  3. ^ 『官報』第813号「叙任及辞令」1915年4月21日。

関連文献

編集

外部リンク

編集


公職
先代
主事
小泉又一
  東京高等師範学校附属中学校主事事務取扱
1909年 - 1910年
次代
主事
波多野貞之助
先代
高等師範学校附属中学校主事
三宅米吉
  東京高等師範学校附属中学校主事
1902年
高等師範学校附属中学校主事
1901年 - 1902年
次代
溝淵進馬