大神塚古墳(おおじんづかこふん)または応神塚古墳(おうじんづかこふん)は、神奈川県高座郡寒川町岡田にある古墳。形状は前方後円墳。寒川町指定重要文化財に指定されている。

大神塚古墳 / 応神塚古墳

後円部墳丘
所在地 神奈川県高座郡寒川町岡田
位置 北緯35度22分17.45秒 東経139度23分14.22秒 / 北緯35.3715139度 東経139.3872833度 / 35.3715139; 139.3872833座標: 北緯35度22分17.45秒 東経139度23分14.22秒 / 北緯35.3715139度 東経139.3872833度 / 35.3715139; 139.3872833
形状 前方後円墳
規模 墳丘長51m(残存)
高さ5m(後円部)
埋葬施設 (推定)礫槨
出土品 銅鏡・直刀・鉄製品
築造時期 4世紀後半
被葬者 (伝)茅武彦命(初代相武国造
史跡 寒川町指定重要文化財「大(応)神塚」
地図
大神塚古墳の位置(神奈川県内)
大神塚古墳
大神塚古墳
地図
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墳丘(左に前方部、右奥に後円部)

概要

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神奈川県中部、相模川東岸の台地先端部に築造された古墳である。現在は安楽寺の裏手に所在し、周辺にはかつて小型古墳5基が分布した(大神塚周辺古墳群、現存1基)。現在までに前方部は大きく削平を受けているほか、1908年明治41年)に埋葬施設の発掘調査が[1]、近年に墳丘の発掘調査が実施されている。

墳形は前方後円形で、前方部を南西方向に向ける。前方部が削平を受けているため詳らかでないが、現存で墳丘長約51メートル・後円部直径約37.5メートル・後円部高さ約5メートルを測る[1]。埋葬施設は墓壙内の礫槨と推測される[2]。明治期の調査では副葬品として銅鏡・直刀・鉄製品が検出されている[3]

築造時期は、古墳時代前期の4世紀後半頃と推定される[2](近年の調査以前は5世紀前半頃の築造と推定[3])。一帯では大神塚周辺古墳群の盟主墳に位置づけられる。被葬者は明らかでないが、地元では初代相武国造の茅武彦命(かやたけひこのみこと)と伝承される。

古墳域は1987年(平成9年)に寒川町指定重要文化財に指定されている[4]

遺跡歴

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出土品

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1908年(明治41年)の調査で検出された埋葬施設の副葬品は次の通り[3]

  • 銅鏡 1 - 仿製鏡。他に後世に古墳上で営まれた経塚の出土品として和鏡2(囲垣秋草鏡1・菊散双雀鏡1)。
  • 直刀
  • 鉄製品

寒川神社では、発掘調査時の出土品として和鏡2・仿製鏡1・勾玉4・切子玉5・管玉2・小玉11・金環6・鉄鏃12以上・直刀ほか鉄製品などが伝世されており(後述の大神塚周辺古墳群出土品を含む)、方徳資料館で保管・展示されている。

大神塚周辺古墳群

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大神塚古墳の周辺には、小型古墳5基(大神塚周辺古墳群)が分布する。そのうち3基は1908年明治41年)・1972年昭和47年)に発掘調査が、残り2基は寒川駅北口土地区画整理事業に伴い2005-2011年平成17-23年)に「岡田西河内遺跡」として発掘調査が実施されている[5]。そのうちの1基は「大塚古墳公園」として整備され、石室が保存されている。

本古墳群からは石室が検出されたほか、耳環・切子玉・等の鉄製品が出土している。築造時期は6世紀末から7世紀前半頃と推定される。周辺古墳群の時期は大神塚古墳と大きな隔たりがあるが、これは大神塚古墳の周辺が古墳時代を通じて首長の墓域と認識される特別な地域であったからと推測される[1]

寒川神社との関係

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大神塚は古来より寒川神社と深い関係があり、「寒川神社由緒古墳」として伝えられていた。そのため、1908年明治41年)の発掘調査は当時の寒川神社宮司の菟田茂丸(うだいかしまろ)の発願で始められた(高橋清次郎という村民が所有地の開墾時に、大神塚周辺の古墳付近で3個の勾玉が見つかり、これを当時の寒川村長の北野与吉が菟田宮司に見せたことが端緒となり発掘調査を決断)。調査は日本初の人類学者である東京帝国大学教授の坪井正五郎が発掘調査を担当した。当時、古墳を発掘調査することは大変珍しく、横浜貿易新報によりその様子が詳報されている。

寒川地域では、寒川神社は国造の祖先を祀る神社としても伝わっており[6]、大神塚は相模川流域を初めて開拓した初代相武国造の茅武彦命を、後世に後裔が追慕するために築造したとされていた。この伝承を記す史料としては、1841年天保12年)成立の『新編相模国風土記稿』、『鷹倉社寺考(たかくらしゃじこう)』(1659年万治2年)頃から寒川神社神主の金子伊予守が編著)の2点が知られる。

當寺の山後に在り。凡二十間四方(當寺の山號は是より起こると云う)應神塚と唱ふ。塚上に大日の石像あり。蓮華座に『大塚山安樂寺成就院、傳聞相州一宮寒川大明神碑、先生之御廟窟也、天和二年壬戌十月廿一日、法印善榮造立』と彫る。 — 『新編相模國風土記稿』巻六十三[7]
亦俚老曰ク、コレ寒川名神ノ御本地ナリト唱ス。往昔ハ相模国ノ国造ノ墳墓ナルベシト俚老マタ伝フルヤ、蓋シ塚ニ大日ノ石像ヲ建テテ曰ク、蓮華ヲ彫シ、『大塚山安楽寺成就院。傳聞相州一之宮寒川大明神碑。先王ノ御廟窟也。天和二年壬戌十月廿一日、法印善栄造立。』ト記ス。 — 『鷹倉社寺考』高倉郡 巻一

このように、当時には蓮華座に「傳聞相州一宮寒川大明神碑先生(先王)之御廟窟也」と彫られた大日如来像が塚の上にあったことが知られる。

また、明治の発掘調査時には、安楽寺末寺の南泉寺(寒川町一之宮地区)の古書類から、貞享3年(1686年)の安楽寺梵鐘の銘文の写しが発見されている。

大日本國相模國一宮安樂寺、夫當寺者當國總社郡郷鎭守謂以奉號、寒川大明神者也、傳聞昔日彼神躰和於築扣卒築於此院立石碑於彼其聖跡也、[8]

すなわち安楽寺は「寒川大明神者」(寒川神社)の別当寺として創建され、古代に扣卒(控えの兵士)が築いた塚に、神躰依(寒川大明神の御神体)が宿り、此院(安楽寺)が建てた石碑がある大神塚が聖跡であるとする。

なお、大神塚が「応神塚」とも称されるようになったのは、鎌倉幕府が武家の守護神として応神天皇を信仰し、中世以降の寒川神社の祭神にも応神天皇が加えられたためと考えられている。明治の発掘調査時の頃には、「車塚」や「ひょうたん塚」とも称されたほか、寒川神社の霊魂(神霊)が祀られるとの伝承が残っていた[9]。また、1931年昭和6年)に制作された『寒川音頭』の第14番の歌詞には「国造 應神塚に 置いた薄霜 ほのりと消えりゃ」とあり[10]、当時の人々が大神塚を国造の墓陵として認識していたことが窺える。

文化財

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寒川町指定文化財

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  • 重要文化財
    • 大(応)神塚 - 1987年(平成9年)12月24日指定(寒川町指定重要文化財第19号)[4]

関連施設

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  • 寒川神社方徳資料館(寒川町宮山、神嶽山神苑内) - 大神塚古墳・大神塚周辺古墳群の出土品を保管。

脚注

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  1. ^ a b c 寒川町史 8 別編 1996.
  2. ^ a b c d 「大(応)神塚古墳(寒川町No.8遺跡)保存目的のための調査概要」平成29年度平成30年度令和元年度令和2年度令和3年度 (PDF) (寒川町ホームページ)。
  3. ^ a b c d 寒川町史 6 通史編 1998.
  4. ^ a b c 大(応)神塚(寒川町ホームページ)。
  5. ^ 寒川町ホームページ 岡田西河内遺跡”. 2018年9月5日閲覧。
  6. ^ 加藤丘之助『史話 さむかわ』84頁(1968年、非売品)
  7. ^ 新編相模国風土記稿 安楽寺 大塚.
  8. ^ 『増補 寒川神社志』 - 古墳撥掘始末
  9. ^ 『寒川その昔を語る 第八集』72頁(寒川町郷土研究会、1985年)
  10. ^ 『40周年記念 目でみる寒川』152頁(寒川町、1980年)

参考文献

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  • 史跡説明板(寒川町教育委員会設置)
  • 地方自治体発行
    • 「大(応)神塚古墳」『寒川町史 6 通史編 原始・古代・中世・近世』寒川町、1998年。 
    • 「大(応)神塚古墳」『寒川町史 8 別編 考古』寒川町、1996年。 
  • 事典類
    • 「大神塚古墳」『日本歴史地名大系 14 神奈川県の地名』平凡社、1984年。ISBN 4582910335 
  • その他
    • 『増補 寒川神社志』(寒川神社、1932年、非売品)
    • 『菅谷神社誌』(菅谷神社誌編纂委員会、2008年、非売品)
    • 菱沼勇、梅田義彦『相摸の古社』(学生社、1971年)
    • 『週刊 日本の神社 第37号』(デアゴスティーニ・ジャパン、2014年)
    • 「澁谷庄 岡田村 安楽寺 大塚」『大日本地誌大系』 第38巻新編相模国風土記稿4巻之63村里部高座郡巻之5、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179219/156 

関連項目

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外部リンク

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