大里町 (福岡県)

日本の福岡県企救郡にあった町

大里町(だいりまち)は、福岡県企救郡にかつて存在した町。町制施行以前は柳ヶ浦村(やなぎがうらむら)と称していた。現在の北九州市門司区の一部。

だいりまち
大里町
廃止日 1923年大正12年)2月1日
廃止理由 編入合併
大里町門司市
現在の自治体 北九州市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 九州地方
都道府県 福岡県
企救郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 13.75 km2.
隣接自治体 門司市、企救郡東郷村松ヶ江村足立村
大里町役場
所在地 福岡県企救郡大里町
座標 北緯33度53分56秒 東経130度56分01秒 / 北緯33.89897度 東経130.93372度 / 33.89897; 130.93372 (大里町)座標: 北緯33度53分56秒 東経130度56分01秒 / 北緯33.89897度 東経130.93372度 / 33.89897; 130.93372 (大里町)
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沿革 編集

柳ヶ浦村の成立 編集

 
門司区の地図(町村制施行時(明治22年)の村名と明治元年当時の町村名
企救郡
文字ヶ関村
柳ヶ浦村
廿町
大里
原町
馬寄
新町

大里町の前身である柳ヶ浦村は、1887年(明治20年)、廿町にじっちょうむら(二十町村)、大里だいり村、やなぎ村、原町はらまち村(東原町村)、馬寄まいそ村、新町しんまち村(馬寄新町村)の5村が合併して成立した[1]。企救半島の西側で、関門海峡に面する。企救郡、旧小倉藩領に属し、廃藩置県後は日田県小倉県を経て1876年(明治9年)以降は福岡県に属していた。なお、柳ヶ浦村の成立と同時に、その北側には、楠原村を合併した門司村が成立した。

合併前の村名 明治20年当時の人口[1] 現在の地域
廿町村 21 門司区上二十町、中二十町、下二十町、寺内1-5丁目、永黒1-2丁目[2]
大里村 339 門司区大里本町1-3丁目、中町、大里新町、松原1-3丁目、梅ノ木町、大里東口、黄金町、大里元町、大里東1-5丁目、永黒1丁目、寺内5丁目、松崎町、不老町1-2丁目、小松町、高田1-2丁目、大里桃山町、泉ヶ丘、大里桜ヶ丘、大里原町、桃山台、青葉台、光町1-2丁目、大里など[3]
柳村 91 門司区柳町1-4丁目、高田1-2丁目、大里戸ノ上1-4丁目、城山町、松崎町、寺内4丁目、永黒1-2丁目、奥田1-5丁目[2]
原町村(東原町村) 66 門司区新原町、別院、原町別院、柳原町[4]
馬寄村 82 門司区東馬寄、上馬寄1-3丁目、社ノ木1-2丁目、稲積1-2丁目、緑ヶ丘、藤松1-3丁目、上藤松1-3丁目[4]
新町村(馬寄新町村) 69 門司区西新町1-2丁目、東新町1-2丁目、下馬寄、柳原町[4]

合併当初は「柳浦村」という表記であったが、古史等に「柳ヶ浦」と表記されていたことから、「柳ヶ浦村」と改称したとされる[1]

1889年(明治22年)、町村制が施行され、自治体としての企救郡柳ヶ浦村が発足した[1]。当時の戸数は477戸、人口は2696人とされている[5]

1891年(明治24年)、九州鉄道の門司(現門司港)・高瀬(現玉名)間が開通し、柳ヶ浦村には柳ヶ浦駅(柳ヶ浦停車場)が開業した。これは、現在の門司駅に当たるが、現在の門司駅よりも400メートルほど北にあった。もっとも、1897年(明治30年)発行の陸地測量部地形図には、駅名が「大里」と表記されており、柳ヶ浦駅より大里駅の呼称の方が親しまれていたと見られる[6]

日清戦争後、柳ヶ浦は、遠賀郡八幡村(現八幡東区)、広島県坂村とともに、国の製鉄事業の用地候補となり、誘致活動を行ったが、選ばれず、1897年(明治30年)、八幡に官営八幡製鉄所が開業するに至った[7]

柳ヶ浦村の北隣では、門司町が、鉄道敷設や築港を機に内外中継貿易港として発展し、1899年(明治32年)に市制施行して門司市となった。一方、柳ヶ浦村では、1903年(明治36年)に鈴木商店金子直吉が大里製糖所を開業し、1907年(明治40年)、これを大日本製糖に売却し、ようやく工場進出が始まろうとしていた[8]

大里町の成立 編集

1908年(明治41年)、柳ヶ浦村に町制が施行され、大里町となった[9]。なお、同年、柳ヶ浦駅も正式に大里駅と改称された[6]

当初、大里町長は無給の名誉職であったが、町政が乱れ、町制施行後10年間で町長が職務代理者を含めて6人も代わった[9]

一町長は公文書偽造犯として一町長は収賄罪として獄に下るなど町政全く紊乱して治績上らず施設の見るべきものなく全くの暗黒時代であった。 — 『門司新報[9]

1909年(明治42年)頃、門司市との合併の声も上がったが、立ち消えとなった[9]

1913年(大正2年)2月、初の有給の町長として柳原保太郎が就任し、町政は回復に向かった[9]

 
大里に開業した帝国麦酒の建物(現門司赤煉瓦プレイス)。

1910年(明治43年)には大里製粉所(後に日本製粉と合併)、1913年(大正2年)には帝国麦酒(後にサッポロビール九州工場)、1914年(大正3年)には大里酒精製造所(後に協和発酵門司工場)など、鈴木商店系の企業が次々設立された。国鉄線路の海側は、民家や寺社を除いてほとんどが鈴木商店の工場で占められ、大里は鈴木王国と言われた[10]。一方、国鉄線路の東側は、田畑ばかりで、住宅はまばらであった[6]

門司市との合併 編集

大里町と門司市との経済的・人的交流が進むにつれ、合併の機運が高まり、1921年(大正10年)、門司市会から10名、大里町会からも町会議員10名が合併調査員として嘱託された。1922年(大正11年)3月、大里町は合併に当たっての条件を門司市に提出し、門司市は同年4月に回答案を示した。大里町は同年5月、改めて条件を提出し、門司市側の承認を得た。同年5月18日、門司市会と大里町会で、大里町の地域全部を門司市に編入する旨の議案を可決した。内務省の承認、知事の許可告示を経て、1923年(大正12年)2月1日、大里町の門司市編入が完了した[11]

合併時の協定に基づき、旧大里町には門司市役所大里出張所が置かれた[12]

脚注 編集

参考文献 編集

  • 川添昭二・武末純一・岡藤良敬・西谷正浩・梶原良則・折田悦郎『福岡県の歴史』山川出版社、1997年。ISBN 4-634-32400-8 
  • 佐々木いさお『歴女・鉄男と訪ねる門司と海峡』海鳥社、2013年。ISBN 978-4-87415-879-1 
  • 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系第41巻 福岡県の地名』平凡社、2004年。ISBN 4-582-49041-7 
  • 門司市編『門司市史』門司市、1933年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050964 
  • 門司市役所発行『門司市史 第2集』1963年。 

外部リンク 編集

関連項目 編集