大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂(おおさかしちゅうおうこうかいどう)は、大阪市北区中之島にある集会施設。
大阪市中央公会堂 | |
---|---|
![]() | |
情報 | |
用途 | 公会堂 |
設計者 | 岡田信一郎(設計原案)、辰野金吾(建築顧問)、片岡安(工事監督) |
施工 | 直営工事 |
構造形式 | 既存部:鉄骨煉瓦造+増築部:RC造 |
敷地面積 | 5,641.81 m² |
建築面積 | 2,330.35(既存部2,164.17+増築部166.18) m² |
延床面積 | 9,886.56(既存部8,425.04+増築部1,461.52) m² |
階数 | 地上3階、地下2階、塔屋付 |
着工 | 1913年(大正2年)6月28日 |
竣工 | 1918年(大正7年)10月31日 |
改築 | 2002年9月保存・再生工事完工 |
所在地 |
〒530-0005 ![]() |
座標 | 北緯34度41分36.7秒 東経135度30分14.4秒 / 北緯34.693528度 東経135.504000度座標: 北緯34度41分36.7秒 東経135度30分14.4秒 / 北緯34.693528度 東経135.504000度 |
文化財 | 重要文化財 |
指定・登録等日 | 2002年(平成14年)12月26日 |
概要編集
大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった[1]。北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。なお、公会堂の所在地は浜田藩の蔵屋敷跡になる。
設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。
建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。ロシア歌劇団の公演、アルベルト・アインシュタインを始め、ヘレン・ケラーやガガーリンなどの歴史的人物の講演も行われた。
日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定された。老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)9月末まで保存・再生工事が行われ同年11月にリニューアルオープン。耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになった。リニューアルの際に取り除かれた当初の意匠についても、一部は保存・活用されており、内装の一部に旧館の遺構をはめ窓のようにしてみせるなどしている。また、周辺道路と敷地を隔てる境界にも、遺構が利用されている。
2006年からは、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督大植英次がプロデュースする同交響楽団を中心とした音楽祭「大阪クラシック」の有料コンサートの会場として、毎年ホール(大集会室)と中集会室が提供されている。2010年5月1日に100年ブランドをめざして、公式ホームページが開設された。
年表編集
建物概要編集
評価編集
交通アクセス編集
内部編集
正面は1階、側面は地階に入り口があり、コンサートなど大きな行事があるとき以外は、側面入り口を利用するようになっている。
- 地階:レストラン、展示室、ショップ
- 1-2階:ホール(大集会室)
- 3階:中・小集会室、特別室
OSAKA光のルネサンスでのライトアップ
周辺施設編集
出典編集
- ^ 山形政昭「大阪市中央公会堂の建築」『大阪芸術大学紀要 藝術』第22号
関連項目編集
外部リンク編集
- 大阪市中央公会堂公式ホームページ
- 大阪市中央公会堂 (大阪市ゆとりとみどり振興局施設案内)
- 大阪市中央公会堂ホームページ開設のお知らせ(大阪市ゆとりとみどり振興局報道発表資料)
- 大阪市中央公会堂建築概要 - 1919年5月の建築雑誌