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大阪市立立葉小学校(おおさかしりつ たてばしょうがっこう)は、かつて大阪府大阪市浪速区立葉二丁目にあった公立小学校2014年閉校した。

大阪市立立葉小学校
過去の名称 西成郡西側簡易小学校
西成郡難波第二尋常小学校
大阪市難波第二尋常小学校
大阪市難波立葉尋常小学校
大阪市立葉国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
併合学校 大阪市桜川国民学校
大阪市芦原国民学校
設立年月日 1890年1月19日
創立者 西成郡難波村
閉校年月日 2014年4月1日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 556-0020
外部リンク 公式サイト
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目次

沿革編集

西成郡難波村で2番目の小学校として、難波小学校(大阪市立難波元町小学校の前身校)より分離する形で1890年に開校した。校名は西側簡易小学校の名称を経て、難波第二尋常小学校となった。1900年に現在地に移転している。

難波地域の小学校では1921年、従来の「難波+創立順の番号」の校名をやめ、「難波+学校所在地の地名」とする改称を地域で一斉に実施した。これにより同年に難波立葉尋常小学校へと改称した。

また地域の児童数の増加に伴い、1921年に芦原小学校(1946年廃校)を分離している。

1941年には国民学校令の実施により、従来の尋常小学校・高等小学校は国民学校に改編されることになった。難波地区の各小学校では国民学校への改編の際、校名について「難波」の冠称を廃止し、「難波○○尋常小学校」から「○○国民学校」へと変更する措置を一斉におこなった。これに伴い立葉国民学校と称した。

太平洋戦争の戦局が悪化したことに伴い、1944年には学童集団疎開を実施することになった。集団疎開は当時の大阪市全域の国民学校で実施され、各行政区ごとに疎開先の府県・地域が割り当てられた。浪速区の国民学校は滋賀県への集団疎開が割り当てられ、立葉国民学校は滋賀県甲賀郡石部町三雲村岩根村(いずれも現在の湖南市)へと疎開を実施している。

1945年3月13日の第一次大阪大空襲では校舎を半焼する被害を受けた。また戦災で地域が大きな被害を受けたため、1946年に近隣の桜川・芦原の2小学校を統合した。

学制改革により、1947年に大阪市立立葉小学校となった。2014年4月1日、児童数の減少に伴い、塩草立葉小学校に統合され閉校した[1]

統合校編集

旧・桜川国民学校は、1908年5月15日に大阪市難波第七尋常小学校として創立した。難波小学校より分離して開校している。1921年に大阪市難波桜川尋常小学校と改称し、また1941年に大阪市桜川国民学校と改称した。1944年以降の学童疎開では、滋賀県滋賀郡小松村木戸村(いずれものちの志賀町・現大津市)への疎開を実施している。1945年の大阪大空襲では校舎被災は免れたものの、校区に重大な被害を受けた。

旧・芦原国民学校は、1921年大阪市難波第九尋常小学校として創立し、直後に大阪市難波芦原尋常小学校と改称した。1941年大阪市芦原国民学校と改称した。1944年以降の学童疎開では、滋賀県栗太郡葉山村(現栗東市)への疎開を実施している。1945年3月の大阪大空襲では校舎を半焼した。

桜川・芦原の両校とも、太平洋戦争の戦災に伴う学校・校区の被害により、立葉国民学校に統合される形で1946年には移行となった。

桜川国民学校の跡地は、校舎を米軍に接収された大阪市立大学が仮校舎として使用し、次いで大阪市立浪速西中学校(現・難波中学校)へと転用された。難波中学校が現在地に移転したのち、UR都市機構桜川住宅となっている。また芦原国民学校の跡地は東洋紙業となっている。

年表編集

通学区域編集

  • 大阪市浪速区 芦原1丁目、芦原2丁目(大半地域)、稲荷2丁目(一部)、木津川1丁目、木津川2丁目(一部)、久保吉1丁目(一部)、久保吉2丁目、桜川2丁目(一部)、桜川3丁目・4丁目、立葉1丁目・2丁目。
卒業生は基本的に大阪市立難波中学校に進学する。

脚注編集

  1. ^ 市立小学校の統合について”. 大阪市. 2014年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月5日閲覧。

関連項目編集