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室谷 信雄むろや のぶお1946年2月11日 - 2018年12月5日)は喜劇役者タレント大阪府泉佐野市出身。吉本興業に所属し、1970年代から1985年まで活躍。吉本新喜劇の座長として間寛平木村進帯谷孝史ら座員はもちろん、多くの芸人から、先輩後輩問わず尊敬され慕われた。1985年、40歳になるころ喉頭ガンで声を失い、惜しまれつつ引退した。

室谷 信雄
ニックネーム ムロ兄さん、クロ兄
生年月日 (1946-02-11) 1946年2月11日
没年月日 (2018-12-05) 2018年12月5日(72歳没)
出身地 日本の旗 日本大阪府泉佐野市
言語 日本語
方言 泉州弁
最終学歴 浪速高等学校卒業
師匠 白木みのるルーキー新一
出身 付き人
事務所 吉本興業
活動時期 1964年 - 1985年
過去の代表番組 モーレツ!!しごき教室 あっちこっち丁稚

目次

来歴・人物編集

芸能活動時代編集

泉佐野市立長南中学校浪速高等学校卒業後、1964年6月に吉本興業に入り。白木みのるルーキー新一に師事する。付き人生活を終えて吉本新喜劇に入団。やがて木村進間寛平らが新喜劇に入団し、若手の活躍が増えると共に室谷も、次第に薄くなってきた髪の毛のネタで脚光を浴びる。1980年頃から木村進、間寛平と共に新喜劇の主役として出演した。1982年には座長に昇格した。

故郷の泉佐野市がタマネギの生産地で有名だった為に、若くして頭髪が薄かったことを「タマネギの食い過ぎ」「タマネギの祟り」などという弄られギャグや、最もインパクトの有るギャグはラバーカップ(トイレの詰まり取り)をその禿げた頭につけられ、そのまま引っ張り回されるというギャグ、また「ごちゃごちゃ言うとったら、しゃーきまっそー!よ、ワ~レ~」という泉州弁の叫び声で、当時、関西の子どもたちの間でよくマネをされていた。テレビ番組では『モーレツ!!しごき教室』にレギュラー出演し、『あっちこっち丁稚』では小番頭の役で、人気を博した。

また、当時は新喜劇団員と漫才などの芸人の間には壁のようなものあり交流が少なかったが、室谷は島田紳助など若手漫才師にも積極的に声を掛け、間寛平と共に慕われる存在であった。

人気絶頂だった1980年代半ば、それまで病気で新喜劇を休演することは一度も無かったが、喉頭が発覚し、1985年頃に声帯を切除する手術を行った。その後遺症として声が出にくくなり休養ののち芸能界を完全引退した。この際、自身の心境の変化もあって、それまでの人間関係からも遠ざかることとなった。これは仲間に迷惑をかけたくないという理由もあったという。

1980年代、同じく身体障害者となった木村進と共に、吉本新喜劇中の悲劇の役者といえる存在としてあげられ、ごく最近まで「吉本新喜劇は観る事は出来ない」(室谷本人)と話していた。引退したのちも太平サブローオール阪神など室谷のギャグやその舞台上でのしゃべり口調を真似をする芸人もおり、他の吉本興業所属芸人にとっても室谷の存在は大きかったことを物語っている。

芸能活動引退以降編集

現役引退後、人と顔を合わせることの少ない早朝の豆腐店に勤務したり、タクシー会社に運転手として就職したりした。晩年はゴルフ場で働き、一人暮らしであったという。関空建設反対運動に関わっていた漁師とも友達であった。

若かりし頃の間寛平は公私に渡って世話になったといい、現在でも『ムロ兄』と呼んで慕っている。2010年8月29日放送の「24時間テレビ 愛は地球を救う」に出演。これは、芸能界引退以来のテレビ出演となった。アースマラソン敢行中の間寛平の激励のためカザフスタンを訪れ、間との劇的な再会を果たし、思い切り涙を流していた。「迷惑をかけたくない」としながらも間との再会を決めた理由は、自分と同じ様にガンにかかっていたため、黙って見ていられなくなったということもあった。間が自分のために病院を探してくれた恩を未だに忘れていないことも大きかった。

2011年1月21日間寛平『アースマラソン』の第一ゴール大阪野音にスペシャルゲストとして参加、でカザフスタンの応援の時現地で買った帽子をネタに会場を笑いの渦に巻き込んだ。また行列のできる法律相談所にも出演。

その後2013年8月25日「愛は地球を救う36」に、この回の番組の企画で陸上十種競技(のマスターズ記録更新)に挑戦した間の激励のため出演。その前にNGKに行き後輩達の出演する新喜劇を十数年ぶりに観劇する様子が、同番組で紹介されている。

2018年12月5日に死去。亡くなって2ヶ月後の2019年2月11日の誕生日に間寛平のTwitterアカウントより報告された[1]。72歳没。

脚注編集