小出 兼政(こいで かねまさ)は、江戸時代後期の和算家、暦学者。徳島藩士。土御門家師範代宮城流、流、最上流和田の算術4流派の他、土御門家より暦法を修め、数学、暦学、天文学に関する膨大な著作を残した。寛政暦が採用する消長法を独自に研究して誤りと断じ、また養子小出光教等と蘭書『ラランデ暦書』を一部翻訳した。

 
小出 兼政
時代 江戸時代後期
生誕 寛政9年8月27日1797年10月16日
死没 慶応元年8月17日1865年10月6日
別名 宮城大学、字:脩喜、通称:長十郎
戒名 修算院自達居士
墓所 寺町善学寺
官位従五位
主君 蜂須賀治昭斉昌斉裕
徳島藩
氏族 小出氏
父母 小出利兵衛、八木定長娘
養子:光教
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生涯 編集

算術の修学 編集

寛政9年(1797年)8月27日、阿波国徳島城下富田紙蔵町に生まれた[1]。定普請小出寛兵衛倅九蔵に字、薬種商戸村屋駒蔵に算盤を学んだ[1]

文化6年(1809年)青山郡八に開平法を学んだ[2]。16歳の時新シ町一丁目の油売り橘屋貞兵衛に入門を乞うも断られ、代わりに紹介された岡崎三蔵にも入門しなかった[3]

文化10年(1813年)隣人太田亀之助の斡旋で阿部旗十郎に入門し、宮城流算術を学んだ[4]。文化14年(1817年)参勤交代から戻った旗十郎の師恒川久右衛門徳高に就き、文政2年(1819年)2月宮城流算術の印可皆伝を受けた[4]

文政7年(1824年)12月算術への専念を決意して藩職を辞し、文政8年(1825年)江戸に出て宮城大学と名乗り、日下誠に入門して長谷川寛和田寧内田五観等と共に流算術を学び[5]、文政9年(1826年)8月宗統の伝を受けた[6]。また、文政9年(1826年)6月同門和田寧に入門して円理学を学び、文政10年(1827年)には会田善左衛門より最上流伝書100巻の伝授を受けた[6]

暦法の研究 編集

文政8年(1825年)来府当初から暦学にも興味を持ち、増上寺円通に入門し、陰陽道を伝授された[7]。文政10年(1827年)上京し[8]、現行の寛政暦を秘伝する陰陽頭土御門晴親に入門した[9]

文政12年(1829年)一旦江戸に戻り、和田寧より和田流算術の皆伝を受けた[9]、算術4流を修めたことで名声が広まり、鳥取藩に仕官の誘いを受けたが、これを徳島藩に諮ったところ、天保元年(1830年)9月在外指留を命じられた[9]

天保5年(1834年)再び上京し、土御門家に寛政暦の暦法を伝授され、天保7年(1836年)『丁酉元暦』を土御門家に献上し、7月5日師範代に列せられた[10]

寛政暦は、の暦書『暦象考成』に基づき、麻田剛立が提唱した消長法を取り入れたものだった。自身の観測結果と照合した結果、消長法は「麻田氏の偽作盲言」と結論付け、また『暦象考成』についても五星暦の記述に関して疑念を抱いた[11]

天保6年(1835年)5月江戸に戻り、中西金吾を介して江戸幕府天文方渋川景佑に入門した[12]。消長法や五星暦に関する疑問をぶつけたところ、高橋至時の『新修五星法』等の著作を紹介され、また天文方において解読の努力が続けられていた蘭書『ラランデ暦書』の存在を知った[13]

天保10年(1839年)8月の日帯食、天保11年(1840年)1月の日食、2月の月食の観測結果を通じて寛政暦の誤りを確認し、冊子にまとめて幕府に献上したところ、水野忠邦の目に留まり、書物方受持奥小姓支配となった[14]

天保12年(1841年)2月16日鍛冶橋藩邸で行われた公開検証において月食の時刻を的中させ[15]、4月徳島に帰った[16]

ラランデ暦書翻訳 編集

弘化元年(1844年)天文方作成の天保暦が施行されると、5月土御門晴雄に伝授を求めたが許されず、天文方で知った『ラランデ暦書』の翻訳を決意した[17]

嘉永3年(1850年)3月藩士安芸雅太郎が長崎摂津町の質屋高見に『ラランデ暦書』を発見したため、自ら出向き、藩主からの御内金で購入した[18]。嘉永4年(1851年)3月より高畠耕斎の助けを借り、養子小出光教に図表、数字を訳させ、2年後「日躔月離及五星暦」「日食月食」の訳文を完成させた[18]

慶応元年(1865年)8月17日病没し、寺町善学寺に葬られた[19]。法名は修算院自達居士[20]大正4年(1915年)贈従五位[21]

職歴 編集

仮目録 編集

門人 編集

  • 小出光教
  • 福田理軒
  • 阿部有清
  • 高岡次右衛門
  • 小林百輔
  • 大村俊庵
  • 彦坂範善
  • 加藤正助
  • 山本柳貞
  • 葛西通之丞
  • 武田常陸
  • 松藤勢助
  • 日和佐良平
  • 樋口貞四郎
  • 赤木滝蔵
  • 山崎喜右衛門
  • 梶佐古源太
  • 池尻総兵衛
  • 上田雅助
  • 沢田久右衛門
  • 有井進斎
  • 土佐屋九兵衛
  • 林衛左衛門
  • 近藤幸之進
  • 大島弥左衛門

小出家 編集

先祖 編集

先祖小出久大夫直勝は尾張国小牧に住み、天正年間蜂須賀正勝に仕え、播磨国宇野氏討伐で戦功を挙げた[27]。その嫡子太郎左衛門は蜂須賀家政に従い阿波国に移住し、その子太郎左衛門直行は朝鮮征伐に参加し、帰国後海部郡代官を務めた[27]。直行の子太郎左衛門直吉は浪人となったが、直吉の弟加兵衛は帰農して名東郡富田浦に小出開を開拓し、その子伝右衛門が長柄組として藩に復帰した[27]

養子仁左衛門を経て、子喜兵衛は弟此右衛門に家督を譲って新シ町二丁目に分家し、手習塾を開いた[27]。子仁左衛門、養子利兵衛を経て長十郎兼政に至る[27]

家族 編集

  • 父:小出利兵衛 - 紙方代官手代宮武為左衛門弟[1]文化2年(1805年)病死[25]
  • 母 - 御番人八木慶次定長娘[1]嘉永2年(1845年)85で没[24]
  • 長男:小出周三郎 - 病弱のため家を継がせなかった[28]
  • 養子:小出光教 - 郡代手代数藤円平四男、瓦師棟梁北野多郎兵衛養子。通称は由岐左衛門。讃岐師範学校助教[29]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 小出 1917, p. 6.
  2. ^ 小出 1917, p. 年表2.
  3. ^ 小出 1917, pp. 6–8.
  4. ^ a b 小出 1917, pp. 8–11.
  5. ^ a b 小出 1917, pp. 11–12.
  6. ^ a b 小出 1917, pp. 18–19.
  7. ^ 小出 1917, p. 14.
  8. ^ 小出 1917, p. 年表4.
  9. ^ a b c 小出 1917, pp. 20–21.
  10. ^ 小出 1917, p. 21.
  11. ^ 小出 1917, pp. 21–22.
  12. ^ 小出 1917, p. 22.
  13. ^ 横塚 2007.
  14. ^ a b c 小出 1917, p. 26.
  15. ^ 小出 1917, p. 27.
  16. ^ a b 小出 1917, p. 32.
  17. ^ 小出 1917, pp. 32–36.
  18. ^ a b 小出 1917, pp. 41–46.
  19. ^ a b 小出 1917, p. 48.
  20. ^ 小寺裕. “小出兼政墓石/顕彰碑”. 和算の館. 2016年3月30日閲覧。
  21. ^ 小出 1917, p. 年表8.
  22. ^ a b 小出 1917, p. 38.
  23. ^ 小出 1917, p. 41.
  24. ^ a b 小出 1917, p. 年表6.
  25. ^ a b 小出 1917.
  26. ^ a b c d e f g h i j k 東北大学和算資料データベースに画像あり。
  27. ^ a b c d e 小出 1917, pp. 5–6.
  28. ^ 小出 1917, p. 39.
  29. ^ 小出 1917, pp. 39–40.

参考文献 編集