小島文八

戦前日本の雑誌編集者、軍人、南洋開拓者

小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年明治12年)12月14日 - 1937年昭和12年)9月23日)は戦前日本の雑誌編集者、軍人、南洋開拓者。シャトーブリアン哀調フランス語版』の訳者。

こじま ぶんぱち

小島 文八
生誕 (1879-12-14) 1879年12月14日
静岡県安倍郡静岡裏一番町
死没 (1937-09-23) 1937年9月23日(57歳没)
東京府東京市本郷区駒込吉祥寺町
国籍 日本の旗 日本
別名 小島洒風
出身校 東京外国語学校仏文
職業 陸軍歩兵少尉
著名な実績 シャトーブリアン哀調フランス語版』翻訳
配偶者 小島かね
子供 小島良男(養子)
小島好問、幾久
親戚 小島宝素(祖母)、大越成徳(伯父)、藤堂紫朗(叔父)
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東京外国語学校フランス文学を専攻し、卒業後『婦人界』主筆を務めた。日露戦争においては松山俘虜所に勤務、終戦後は職を転々とし、西沢島等の南洋事業に関わった。

生涯 編集

学生時代 編集

1879年(明治12年)12月14日、静岡県静岡裏一番町に陸軍士官小島好問の子として生まれた[1]。なお、生誕時父はフランスに留学していた[1]

1894年(明治27年)4月明治議会中学2年に編入、1896年(明治29年)4月父がに転任した頃塩谷青山塾に預けられ、そこから中学に通った[2]。中学時代は北村透谷ワーズワースに傾倒し[3]、1897年(明治30年)4月島田三郎が結成した社会問題研究会に参加し、吉丸一昌と知り合った[4]

1898年(明治31年)3月中学を卒業し、9月東京外国語学校仏文科に一期生として入学した[5]。父の勧めで幹部候補生を志望し[3]、成人を待って1900年(明治33年)1月から12月まで近衛師団麻布聯隊に入隊した[6]。復学後巌谷春生と知り合い、木曜会に入会した[7]

1902年(明治35年)7月一年遅れで外語学校を卒業した[3]。11月シャトーブリアンルネフランス語版』を『哀調』と題して翻訳したが、当時はロシア文学が流行しており、余り注目されなかった[8]

卒業後は東京帝国大学仏文科への進学を志望したが、9月欧州から帰国した父に反対され、12月三井物産大阪支店調査部に就職し[9]、世界の教育史調査を担当した[10]

『婦人界』主筆 編集

1903年(明治36年)春、来阪した国木田独歩に仕事の不満を告げると、女性雑誌『婦人界』主筆の誘いを受けて帰京[11]、父からは勘当を受けたため、飯田橋旅館に下宿した[12]。時代はロマン主義の只中にあり、女性誌主筆となった文八には読者からの求婚が殺到したため[13]、身を固めるため1904年(明治37年)1月から成女学校国語を教え[14]、四年生の朝倉かねと婚約した[15]

俘虜収容所 編集

日露戦争が始まると、叔父藤堂紫朗の計らいで情報局に配属され[16]、6月松山旅団司令部附として松山俘虜収容所に赴任した[17]。1904年(明治37年)8月収容された通信員タゲーエフと文学について語り合い、トルストイ人道主義を理想として郡中旅行を企画したほか[18]ロシア帝国によって祖国を逐われたポーランド人ロマンドスキーの収容所視察に影響され、ポーランド人捕虜にポーランド語の教育を施すことを企画した[19]。戦争激化につれ人道主義の限界を感じていたところ、西本願寺日高某に渡された清沢満之の著書に感銘を受け、仏教に傾倒した[20]

捕虜の増大に伴い、名古屋師団司令部附として名古屋派遣され、名古屋俘虜収容所開設に携わった[21]

1906年(明治39年)春の捕虜送還を終えて除隊となり[22]、5月頃伯父大越成徳の日英シンジケート設立を手伝ったが、間もなく中止となった[23]

南洋事業 編集

1907年(明治40年)春台湾旅行中、基隆の豪商西沢吉治に出会った。満州安東県に父を訪ね、秋に南満州鉄道沿線調査を行った後[24]、西沢商店神戸支店に勤め、10月半ば東沙諸島の無人島に渡り、西沢島経営のため視察を行った[25]。帰国後、神戸支店、長崎支店に移り、8月長崎支店長となったが[26]、1908年(明治41年)11月高平・ルート協定により西沢島は清国領土とされ、次いで西沢吉治も死去し、退社した[26]

1909年(明治42年)6月祖山鐘三の『実業之天地』創刊を助けて印刷を担当した。次号は出なかったものの、その時知り合った秀英社社長の紹介で、年12月東洋移民会社業務代理人としてボーキサイト採掘移民を連れて仏領ニューカレドニア島に渡った[27]

1910年(明治43年)父が帰国して藤枝に隠棲したため、その敷地内に引越し農村生活を夢みたが、挫折した[28]

渋川玄二の紹介で東京朝日新聞社社会部に勤めたが、間もなく退社した[29]和田瑞大倉喜八郎の依頼で揚子江に行くことを聞き、野村岩蔵と同行[30]、単身帰国した[31]

1912年(明治45年)池田旭の勧めで三五公司に入社し、マレー半島のゴム植林事業のためジョホール王国バトパハマレー語版に赴任した[32]

1915年(大正4年)頃、総支配人木村大介が赴任し[33]、1917年(大正6年)12月木村大介の推薦で南洋ゴムスマトラ島でのゴム園事業を任され[34]、1918年(大正7年)暮帰国し、本郷区吉祥寺境内に住んで東京本社に勤務したが、1919年(大正8年)4月社長が死去したため退社した[35]。父の遺産と退職金を元に、在京のままシンガポールにゴム会社を設立したが、1920年(大正9年)戦後恐慌によりゴム価が暴落し、解散した[36]

1920年(大正9年)から1921年(大正10年)の間、自叙伝「生命の廃墟」を著した。

1937年(昭和12年)9月23日死去。ホイットマンの詩を誦しながら息を引き取ったという[37]

家族 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 藤井(1977) p.28
  2. ^ 藤井(1977) p.40
  3. ^ a b c 藤井(1976) p.113
  4. ^ 藤井(1977) p.41-42
  5. ^ 藤井(1976) p.114
  6. ^ 藤井(1977) p.43
  7. ^ 藤井(1976) p.110
  8. ^ 藤井(1976) p.102
  9. ^ 藤井(1976) p.103
  10. ^ 藤井(1977) p.45
  11. ^ 藤井(1977) p.49
  12. ^ 藤井(1977) p.51
  13. ^ 藤井(1977) p.62
  14. ^ 藤井(1977) p.58
  15. ^ 藤井(1977) p.61
  16. ^ 藤井(1978) p.2
  17. ^ 藤井(1978) p.3
  18. ^ 藤井(1978) p.4-7
  19. ^ 藤井(1978) p.7-8
  20. ^ 藤井(1978) p.11-14
  21. ^ 藤井(1978) p.15-16
  22. ^ 藤井(1979) p.2
  23. ^ 藤井(1979) p.3
  24. ^ 藤井(1979) p.5
  25. ^ 藤井(1979) p.8
  26. ^ a b 藤井(1979) p.12
  27. ^ 藤井(1979) p.13
  28. ^ 藤井(1979) p.19-22
  29. ^ 藤井(1979) p.22
  30. ^ 藤井(1979) p.23
  31. ^ 藤井(1979) p.29
  32. ^ 藤井(1979) p.30
  33. ^ 藤井(1979) p.39-40
  34. ^ 藤井(1979) p.42
  35. ^ 藤井(1979) p.44
  36. ^ 藤井(1979) p.46-47
  37. ^ 藤井(1979) p.50
  38. ^ 藤井(1977) p.32
  39. ^ 藤井(1978) p.35
  40. ^ 藤井(1979) p.41

参考文献 編集