山元清多
山元 清多(やまもと きよかず、1939年6月11日[1] - 2010年9月12日)は、日本の脚本家、劇作家、演出家。東京都江東区出身[1]。東京都立両国高等学校卒業[1]、東京大学教育学部教育心理学科卒業[1]。劇団黒テント所属。妻は女優の稲葉良子。
やまもと きよかず 山元 清多 | |
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プロフィール | |
誕生日 | 1939年6月11日 |
出身地 |
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死没日 | 2010年9月12日(71歳没) |
死没地 |
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主な作品 | |
テレビドラマ |
『ムー一族』 『青が散る』 『はいすくーる落書』 『カミさんの悪口』シリーズ |
映画 | 『佐賀のがばいばあちゃん』 |
舞台 |
『さよならマックス』 『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』 |
受賞 | |
第27回岸田國士戯曲賞 (『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』) | |
その他 | |
劇団黒テント所属 |
略歴
編集5人兄弟の長男[1]。父親は自営業だが、太平洋戦争終戦を境に事業がうまくいかなくなって仕事・住居ともに転々としていた[1]。大学では演劇研究会に所属[1]。大学在学中より芝居の執筆を開始。大学卒業後は時事通信社に入社し、運動部記者としてアマチュアスポーツを3年間担当[1]。1967年に「六月劇場」の結成参加のため時事通信社を退職[1]。その後六月劇場を経て、1968年に黒テントの前身である「演劇センター68」に参加。舞台脚本デビューは1969年の作品の『海賊』[1]。佐藤信、加藤直とともに黒テントの座付き作家となり、また演出も担当した。ブレヒト作品の設定を日本に置き換えた『ハザマとスミちゃん』や『隠し砦の肝っ玉』など、さまざまな舞台の脚本・演出を手掛け、1983年には『比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ』で第27回岸田國士戯曲賞を受賞している[1]。
テレビドラマにも進出。岸田森、樹木希林から紹介してもらい、久世光彦に出会ったのをきっかけに、久世プロデュース作品の脚本を多く手掛ける[1]。その他にも脚本家としてテレビドラマ等で多くのヒット作がある。
2010年9月12日午後4時18分に肺がんのため東京都新宿区の病院で死去。71歳没。
作品
編集舞台
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- 海賊(1969年)
- さよならマックス(1973年)
- 比置野(ピノッキオ)ジャンバラヤ(1983年)
テレビドラマ
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- 「帰ってきたウルトラマン」1971年 第35話「残酷!光怪獣プリズ魔」※「朱川審」名義[2]
- 「ウルトラマンA」1973年 第47話「山椒魚の呪い」(石堂淑朗と共作)
- 「ムー」1977年
- 「ワニと鸚鵡とおっとせい」映画 1977年
- 「ムー一族」1978年
- 「刑事ヨロシク」1982年
- 「青が散る」1983年
- 「お坊っチャマにはわかるまい!」1986年
- 「親にはナイショで…」1986年
- 「藤子不二雄の夢カメラ」1986年
- 「はいすくーる落書」1989年
- 「はいすくーる落書2」1990年
- 「パパとなっちゃん」1991年
- 「説得 エホバの証人と輸血拒否事件」1993年
- 「愛するということ」1993年
- 「カミさんの悪口」1993年
- 「いつか見た青い空」1995年
- 「言うなかれ、君よ、別れを」1996年
- 「坊っちゃんちゃん」1996年
- 「蛍の宿」1997年
- 「昭和のいのち」1998年
- 「カミさんなんかこわくない」1998年
- 「あさき夢見し」1999年
- 「百年の物語 第二部~愛は哀しみを越えて~」2000年
- 「明智小五郎 対 怪人二十面相」2002年
- 「僕たちの戦争」2006年
- 「そうか、もう君はいないのか」2009年
映画
編集- 佐賀のがばいばあちゃん(2006年)