崇教館(そうきょうかん[1][2])は、信濃国松本藩藩校

概要 編集

松本藩主松平光行が、藩士の私塾「新町学問所」を移設して、藩校としたことに始まる。明治維新後の藩政改革によって松本藩学に改組され、学制発布により役割を終えた。

今城(いまき)家[3]と、多湖(たこ)家の2家統を藩儒の中心に据え、一貫して朱子学を主たる学風とした。主な教官に今城峴山、多湖栢山・松江[4]、木沢天童、柴田利直、松原葆斎などがいた[5]

また藩版として、『尚書正文』、『大学』、『論語』、『四書集注』等の漢籍の出版も手掛けた[6]

沿革 編集

  • 宝暦年間 -「新町学問所」が新町に設立。
  • 寛政5年(1793年) - 藩主松平光行により城下・三の丸柳町に移設され開闢。
  • 天保13年(1842年) - 江戸幕府が諸藩に大部漢籍の印刷出版を命じると、松本藩では崇教館から『兵要録』を刊行した。
  • 明治3年(1870年) - 藩政改革に伴い松本藩学となる。皇学所を設置。隣接する地蔵清水町に校地を増設。
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県より松本県学と改称される。公立医院(医学校)を設置。
  • 明治5年(1872年) - 筑摩県学と改称される。
  • 明治6年(1873年) - 学制発布により開智学校開校。
  • 明治43年(1910年) - 旧藩主末裔の子爵戸田康保により、東京に寄宿舎として再興され、大正年間まで続いた。

教育内容 編集

内容は和漢学、数学(和算)、筆道、長沼流兵学、兵馬術、弓術、剣術、槍術、砲術、遊泳術、小笠原流習礼など。維新後には皇学、医学、数学(洋算)が追加された。

授業形態は、十三経や和漢史類の素読、復読、聴講、質問、輪読、輪講、独読、会読の方法が採用され、力量に応じて詩文作が課された。筆道は和様・漢様の両様を習得させ、兵学書は儒官が講釈した。

年末に定期試験があり、「学庸済み、四書済み、詩書済み、五経済み、十三経済み」の5段階に分け、武道は各師範家が年間の勤惰と武技の成否を元に優劣を定めた。成績優秀者、皆勤者には賞詞が与えられた。

藩学おいては小学、藩学の2段階に分け、それぞれ下中上の三等級を置いた。また藩学には和書138種、漢籍175種、兵学書63種の蔵書があった。

使用教科書 編集

  • 和漢学
    • 四書、小学、近思録、五経三礼、三伝、孝経、爾雅、本朝通記、国史略、皇朝史略、日本外史、大日本史、十八史略、史記、漢書、通鑑網目、文章軌範、八大家読本、唐宋詩集類、白鹿洞書院掲示
  • 兵学
    • 七書、兵要録、大要録、経権提要(藩政時代)
    • 上記のほか、歩操新式、野戦要務、歩兵程式、士官必携、築城典型、三兵答古知機(維新後)
  • 医学(維新後)
    • 博物学、病理学、化学、薬剤学、解剖学、治療学、厚生学
  • 皇学(維新後)
    • 童蒙入学門、稽古要略、古道訓蒙頌、神徳略述頌、古学二千文、荷田大人啓、皇典文彙、古語拾遺、古事記、日本紀、続日本後紀、日本後紀、続日本紀、文徳実録、三代実録、万葉集、古今集、詞の八衛

職制 編集

  • 教員 - 惣教(1名)、教授(1名)、助教(3名)、訓導(4名)、書学世話役(10名)、句読(10名)
  • 事務員 - 学校掛(2名)、学館目付(3名)、主事(2名)、行儀世話役(6名)、下勤(4名)、茶番(4名)、定番(1名)

生徒 編集

本来は50石取以上の諸士子弟に入学が限られ、軽輩の士は専ら武道のみを修めるものとされたが、維新後に藩学に転じた際に、卒族子弟の入学も可能となった。藩学に於いては8歳から14歳までが小学で学び、藩学に進むものとされた。生徒数は文政・天保のころは約60名、文久・元治以降は約260名、藩学に転換後は約300余名であった。

敷地の概要 編集

敷地面積は約400坪、建坪は約100坪。木造平屋建で、大小17部屋から成り、講堂、書学堂、聴聞間、活字屋があり、外部に射場、外多流の剣術道場などがあった。兵馬術、槍術、砲術、遊泳術などは館外の教場で演習が実施された。

脚注 編集

  1. ^ 『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 第二巻歴史下』
  2. ^ 『松本市史』
  3. ^ のちに改め城(じょう)家
  4. ^ 先哲叢談』に載録
  5. ^ 『日本人名大辞典』2009年
  6. ^ 鈴木(2018)

参考文献 編集

  • 長野県史 通史編 第6巻 近世3』
  • 大石学編『近世藩制・藩校大事典』吉川弘文館、2006年。
  • 千原勝美『信州の藩学』1986年。
  • 宮川清治『松本藩の藩学』1992年。
  • 鈴木俊幸, 山本英二『信州松本藩崇教館と多湖文庫』2015年。
  • 鈴木俊幸『信州の本屋と出版』2018年