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川村花菱

日本の劇作家、演出家、脚本家

川村 花菱(かわむら かりょう、1884年2月21日 - 1954年9月1日[1])は、日本の劇作家演出家脚本家である。本名は川村 久輔(かわむら きゅうすけ)[1]

かわむら かりょう
川村 花菱
本名 川村 久輔 かわむら きゅうすけ
生年月日 (1884-02-21) 1884年2月21日
没年月日 (1954-09-01) 1954年9月1日(70歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区牛込
職業 劇作家演出家脚本家
ジャンル 新派現代劇映画
主な作品
戯曲
母三人
露のあとさき
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人物・来歴編集

1884年(明治17年)2月21日東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区牛込)に「川村久輔」としてうまれる[1]。父は旧幕臣・官僚の川村正平(恵十郎)[2]

旧制・早稲田大学英文科を卒業する[1]。満24歳となった1908年(明治41年)11月11日、東京・牛込に藤沢浅二郎が自費で開校した東京俳優養成所[3]の教師となる[1]

1912年(明治45年)、有楽座土曜劇場を設立する[1]。続いて新日本劇を設立する[1]。1923年(大正12年)、日活向島撮影所の脚本部に入社している[4]。同年9月の関東大震災以降、向島撮影所の京都移転に伴い、京都撮影所の第二部(現代劇部)に異動している[5]

1932年(昭和7年)からは松竹蒲田撮影所で、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『乳姉妹』といった通俗小説の脚本化に携わった。

その後は、芸術座の脚本部員・興行主事として活動した[1]。代表作とされる戯曲『母三人[1]は、1930年(昭和5年)以来、4度映画化された。

1954年(昭和29年)9月1日、死去した[1]。満70歳没。没後の1967年(昭和42年)、駅前シリーズ佐伯幸三監督作『喜劇 駅前満貫』に原案が起用されている。現在著作権の保護期間は満了し、作品のすべてがパブリックドメインである。

おもなフィルモグラフィ編集

サイレント初期はクレジットが存在せず、不明な作品がある。特筆以外はすべて原作。

1923年
1924年
1930年
1932年
1933年
1934年
1935年
1936年
1937年
1940年
1949年
1958年・没後
1967年・没後

ビブリオグラフィ編集

国立国会図書館蔵書[6]

  • 『川村花菱脚本集 第1巻』、金星堂、1923年
  • 『大正むさしあぶみ 大震災印象記』、挿画山村耕花報知新聞社出版部、1924年
  • 『国定忠次』、文興院、1924年
    • 『端唄の家』『誓願の日』『老』『残んの雪』『医者の家』『国定忠次』を収録[7]
  • 『日本戯曲全集 現代篇 第7輯』、春陽堂、1929年
  • 『上演用脚本集』、清水書房、1943年
    • 『兵隊の宿』を収録[8]
  • 『母三人』、北光書房、1949年
  • 『随筆・松井須磨子』、青蛙房、1968年 - 青蛙選書
    • 『松井須磨子』新装版、青蛙房、2006年9月
  • 『国立劇場歌舞伎公演上演台本 昭和47年1月 - 昭和47年12月』、編集・出版国立劇場、1972年1月 - 同年12月
  • 『夢二と花菱・耕花の関東大震災ルポ』、共著竹久夢二・山村耕花、クレス出版、2003年9月

編集

  1. ^ a b c d e f g h i j 川村花菱、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年1月4日閲覧。
  2. ^ 浅田康夫「横浜市会の新選組生き残り」(日本ペンクラブ電子文藝館)
  3. ^ 藤沢浅二郎、『朝日日本歴史人物事典』、執筆藤木宏幸朝日新聞出版、コトバンク、2010年1月4日閲覧。
  4. ^ 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、田中純一郎中公文庫、1975年11月25日 ISBN 4122002850、p.370.
  5. ^ 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.374.
  6. ^ OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2010年1月4日閲覧。
  7. ^ 国定忠次、国立国会図書館、2010年1月4日閲覧。
  8. ^ 上演用脚本集、国立国会図書館、2010年1月4日閲覧。
  9. ^ 国立劇場歌舞伎公演上演台本 昭和47年1月 - 昭和47年12月、国立国会図書館、2010年1月4日閲覧。

外部リンク編集