平野 三郎(ひらの さぶろう、1912年3月23日 - 1994年4月4日)は、日本の政治家。元岐阜県知事、元衆議院議員自民党大野派)。

平野 三郎
ひらの さぶろう
生年月日 (1912-03-23) 1912年3月23日
出生地 岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市
没年月日 (1994-04-04) 1994年4月4日(82歳没)
出身校 慶應義塾大学高等部中退
所属政党民主自由党→)
自由党→)
自由民主党→)
無所属
親族 父・平野増吉(衆議院議員)
叔父・平野力三(衆議院議員)

当選回数 3回
在任期間 1966年10月17日 - 1976年12月14日

選挙区 旧岐阜2区
当選回数 5回
在任期間 1949年1月23日 - 1960年10月24日

当選回数 1回
在任期間 1947年 -
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父は庄川事件庄川流木争議庄川ダム争議庄川流木事件)で活躍した衆議院議員の平野増吉。元農林大臣平野力三は父の実弟(叔父)にあたる。思想家内田樹は元女婿。

生涯 編集

岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)に生まれる。慶應義塾大学高等部在学中に左翼運動に関わり(第二次共産党中央委員)検挙され、1931年に中退する。1947年八幡町長に当選する[1]

1949年第24回衆議院議員総選挙民主自由党から旧岐阜2区にて立候補し初当選。25回~27回は自由党公認で当選。28回は自由民主党公認で5期目の当選を果たす。内閣総理大臣を経験した幣原喜重郎衆議院議長秘書官をしていた。29回(1960年)と30回(1963年)は落選。1963年、報告書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」を憲法調査会に提出。同報告書は「平野文書」と呼ばれる[1]

1966年9月18日に行われた岐阜県知事選挙に自民党公認で立候補し、現職の松野幸泰を破って岐阜県知事に初当選した。以降3期務める。

1976年、県の工事の競争入札における指名などに便宜を図り、建設会社2社からそれぞれ300万円を受け取ったなどとして収賄罪で起訴された。これを受けて同年12月14日に岐阜県議会は平野の不信任決議を可決し、即日辞任をした。公選知事不信任決議可決は日本国政治史上初めて。以後、岐阜県の知事選は今日まで1月に行われている。

1980年懲役2年、執行猶予4年の判決が確定している。1994年4月4日気管支炎のため82歳で死去。

娘婿(後に離婚)は内田樹

著書 編集

  • 『保守主義の哲学』月刊時事社、1959年
  • 『平和憲法秘話―幣原喜重郎その人と思想』講談社、1972年
  • 『昭和を支えた天皇物語』すばる書房、1981年
  • 『天皇と象の肉 陛下、やはり千鳥はシギでした』けやき出版、1983年
  • 『昭和の天皇 帝王学の神髄』鳥影社、1987年
  • 『平和憲法の水源―昭和天皇の決断』講談社出版サービスセンター、1993年

脚注 編集

  1. ^ a b 平野 三郎 (ヒラノ サブロウ)”. コトバンク. 2018年11月5日閲覧。

外部リンク 編集

公職
先代
松野幸泰
  岐阜県知事
公選第6 - 8代:1966年 - 1976年
次代
上松陽助
議会
先代
大石武一
  衆議院厚生委員長
1952年 - 1953年
次代
小島徹三