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平 高清(たいら の たかきよ/平 六代 たいら の ろくだい)、承安3年(1173年?) - 建久10年2月5日1199年3月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての平家一門。父は平維盛平清盛の曾孫にあたる。母は藤原成親の娘・新大納言局

生涯編集

幼名平正盛から数えて直系の六代目に当たることに因んで「六代(ろくだい)」と名づけられた[1]。「高清」という実名は高野山の歴史を記した『高野春秋編年輯録』などに記載されているが、『平家物語』が幼名の六代を用い続けているために「平 六代」の名前で呼ばれるのが一般的である(本項目でも、特に断りが無い限りは「(六代」と表記する)。

寿永2年(1183年)、源義仲の攻勢の前に平氏が都落ちを決意したとき、維盛は都に慣れ親しんでいる妻を共に西国に落ち延びさせることは忍び難いとして、妻子を都に残して一門と共に西走する。このとき維盛は妻に対して子供のことを頼むと共に、自らに何かあったら再婚してほしいと言い残した(『平家物語』)。

六代は母と共に京都普照寺奥大覚寺北に潜伏していたが、平氏滅亡後の文治元年(1185年)12月、北条時政の捜索によって捕らえられた。清盛の曾孫に当たることから本来なら鎌倉に送られて斬首になるところであったが、文覚上人の助命嘆願があって処刑を免れ、その身柄は文覚に預けられることとなった。また、前述の維盛の妻(六代の母)は夫の死後に頼朝の信頼が厚い公卿吉田経房と再婚しており、この事も六代の助命と関係している事が考えられる。文治5年(1189年)に六代は剃髪して妙覚と号す。建久5年(1194年)には大江広元を通じて源頼朝と謁見し、異心無く出家したことを伝えた。しかしこのとき、頼朝は六代の姿を見てその聡明さを見抜き、危険視したと言われている。が、このときはあまり気に留めず、六代をある寺の別当職に任じた。

 
平高清(六代御前)の墓

その後、六代は僧としての修行に出て諸国を回った。ところが頼朝の死後、自分の庇護者であった文覚が土御門通親襲撃計画を企てたとして隠岐国に流罪に処される(三左衛門事件)と、六代も猪熊の宿所にて検非違使安倍資兼によって捕らえられ、田越川にて処刑されてしまったのである。享年27。没年は建久9年(1198年)、元久2年(1205年)という説あり、斬られた場所も『平家物語』諸本で異なっている。なお、1198年説では享年は26、1205年説では享年は33となる。

墓所:逗子市史跡指定地とされている田越川辺小名柳作。六代の死により、清盛の嫡流は完全に断絶した。

脚注編集

  1. ^ 「六代丸(ろくだいまる)」とも表記される。

関連項目編集