広野翼
広野 翼(ひろの まもる、1940年11月21日 - )は、徳島県出身のプロ野球選手(外野手)。実弟はプロ野球選手(中日、西鉄、巨人でプレー)の広野功。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 徳島県徳島市 |
生年月日 | 1940年11月21日(83歳) |
身長 体重 |
179 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1960年 |
初出場 | 1961年6月1日 |
最終出場 | 1962年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
編集徳島県立徳島商業高等学校では外野手として同期のエース板東英二を擁し活躍。1957年の秋季四国大会は1回戦で坂出商に敗退。翌1958年夏は県予選決勝で撫養高を降し、左翼手として夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)でエース石戸四六を擁する秋田商に完封勝ち。3回戦も八女高を破り準々決勝に進出。魚津高との準々決勝は、板東と村椿輝雄の投手戦となり延長18回0-0で終了(魚津対徳島商延長18回引き分け再試合に詳述)。翌日の再試合は3-1で勝利、準決勝も作新学院を降す。決勝は柳井高の技巧派エース友歳克彦(法大-日本石油)に0-7で完封負けを喫し、準優勝にとどまった[1]。同年の富山国体にも出場、準々決勝で清水東高の山田茂利(明大-日本鋼管)、鈴木悳夫のバッテリーに抑えられ完封負け。板東以外の高校同期に一塁手の大野守、1年下に遊撃手の大坂雅彦がいた。
1960年に阪急ブレーブスに入団。強肩俊足の外野手として期待され、翌1961年に一軍に昇格。6月下旬から右翼手、中堅手として38試合に先発出場。しかし翌1962年は出場機会が減少し、10月9日の東映戦(後楽園球場)が一軍での最後の出場だった。1964年限りで引退。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1961 | 阪急 | 69 | 175 | 165 | 13 | 40 | 6 | 1 | 2 | 54 | 14 | 5 | 0 | 1 | 0 | 9 | 1 | 0 | 35 | 2 | .242 | .282 | .327 | .609 |
1962 | 63 | 68 | 59 | 4 | 8 | 1 | 1 | 0 | 11 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 4 | 0 | 1 | 13 | 1 | .136 | .203 | .186 | .389 | |
通算:2年 | 132 | 243 | 224 | 17 | 48 | 7 | 2 | 2 | 65 | 14 | 6 | 0 | 5 | 0 | 13 | 1 | 1 | 48 | 3 | .214 | .261 | .290 | .551 |
背番号
編集脚注
編集- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ オリックス・バファローズ 背番号51(背番号Maniax)
- ^ オリックス・バファローズ 背番号28(背番号Maniax)
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 広野翼 - NPB.jp 日本野球機構