延安派(えんあんは)は、第二次世界大戦後の朝鮮半島北部(後の朝鮮民主主義人民共和国)にあった共産主義者の政治派閥のひとつ。

延安派
各種表記
ハングル 연안파
漢字 延安派
発音 ヨナンパ
日本語読み: えんあんは
MR式
2000年式
Yŏnanp'a
Yeonanpa
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1940年代前半、中華民国延安を根拠地とする中国共産党の指導下にあった朝鮮独立同盟朝鮮語版朝鮮義勇軍を母体としているグループを指す。1950年代半ばの北朝鮮内部の政権抗争において、1930年代中国東北部で同じく中国共産党の指導下だった東北抗日聯軍を母体とする金日成満州派に敗れて粛清された。

本項では、その前史として中国における中国共産党指導下の朝鮮人社会主義運動についても言及する。

前史 編集

中国における朝鮮人の社会主義運動 編集

満洲(中国東北地方)には19世紀末より朝鮮人が居住するようになり(朝鮮族参照)、朝鮮が日本による支配下にあった時代には抗日運動の舞台となった。この中から、社会主義による革命と独立を目指す運動も現れた。また、中国本土においても、朝鮮人留学生が社会主義思想を受容して運動に参加したり、朝鮮や満州での活動が困難になった活動家が移り、活動の舞台とした。在満の朝鮮人革命家の多くは朝鮮共産党に、在中国本土の朝鮮人革命家の多くは中国共産党に参加した。

留学生として中国にわたった武亭は1920年代半ばに中国共産党に加入しており、長征にも加わった。張志楽広州起義(1927年)に参加している。

なお、満洲における朝鮮人社会主義者の活動は1930年代に中国共産党指導下におかれ、軍事組織として東北抗日聯軍が形成される。のちにここからソ連領に脱出した金日成らのグループが満州派を形成することになる。

延安の朝鮮人革命家たち 編集

1936年、長征のすえに中国共産党が延安に本拠地を移す。1930年代後半から40年代にかけて、延安には多くの朝鮮人社会主義者が集まり、左派抗日民族運動の拠点となった。

延安に入ったニム・ウェールズは、「キム・サン」こと張志楽の半生と人柄を『アリランの歌』に描き、欧米圏に朝鮮人の革命運動を紹介した。ただし、張志楽本人はその後康生による粛清に巻き込まれ、1938年に日本のスパイの嫌疑をかけられて処刑されている。

1940年代に入ると、中国において独自に社会主義系の活動を行っていた崔昌益らが延安に入り、中国共産党の勢力に合流。1942年7月、延安において朝鮮独立同盟朝鮮語版(委員長:金奉)が結成され、朝鮮人活動家たちが組織された。太行山根拠地では崔昌益が率いてきた朝鮮義勇隊(もともとは中国国民党が支援する左派系軍事組織)を基盤に朝鮮独立同盟の軍事組織として朝鮮義勇軍(司令官:武亭)が結成され、中国共産党と八路軍の支援を受けて日本軍に対する宣伝活動などに従事した。また、延安に朝鮮革命軍政学校を設立し、幹部の養成にあたっている。

中国戦線に動員された日本軍の朝鮮人兵士の中には、脱走して朝鮮義勇軍に加わる者もあった。1945年には作家金史良が中国共産党支配地域に脱出している。

戦後北朝鮮における「延安派」 編集

1945年8月の日本の敗戦と朝鮮の解放によって、延安で活動していた朝鮮人社会主義者は順次帰国。その多くはソ連占領下の朝鮮北部における社会主義体制建設に参加していった。当時の北朝鮮はさまざまな経歴を持つ革命家の寄り合い所帯であり、延安派は金日成らの満州派(パルチザン派)、朝鮮内部で独立運動を行ってきた南労党派甲山派、ソ連出身者を中心としたソ連派などの諸派閥と競合関係にあった。

1946年2月、金枓奉ら延安派を中心とするグループは北部朝鮮で朝鮮新民党を、南部朝鮮で南朝鮮新民党を結成。北の朝鮮新民党は、同7月、金日成の朝鮮共産党北朝鮮分局に吸収されて北朝鮮労働党となり、金奉が同党委員長に就任した。1949年6月、朝鮮労働党が結成され、同9月に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

中国で実戦経験を積んだ延安派の幹部や兵士たちは1948年に発足した朝鮮人民軍の中で重要な位置を占めた。1950年朝鮮戦争において、武亭方虎山は部隊の指揮に当たり、金雄朴一禹らは中国との連絡と調整にあたった。

朝鮮戦争開戦時点において、朝鮮人民軍主力部隊の7個歩兵師団、21個歩兵連隊で幹部の地位を占めていた朝鮮義勇軍出身者を列挙すると次のようになる[1]

  • 師団長 - 李権武(第4師団)、金昌徳(第5師団)、方虎山(第6師団)、全宇(第12師団)
  • 参謀長 - 玄波(第2師団)、張平山(第3師団)、趙寛(第5師団)、盧喆龍(第6師団)
  • 連隊長 - 崔京洙(第4連隊)、朴正徳(第10連隊)、金鳳文(第11連隊)、王輝(第12連隊)、韓日海(第13連隊)、黄石(第14連隊)、李芳南(第15連隊)、張教徳(第18連隊)、崔学勲(第30連隊)、李原成(第31連隊)

1956年、ソ連でスターリン批判が起こると、北朝鮮においても金日成批判が起った。延安派はソ連派とともにその中心となったが、金日成に敗れ粛清され(8月宗派事件)グループとして消滅した。

主要なメンバー 編集

中国共産党への加入もしくは共産党勢力との合流時期と、1940年代における代表的な役職 / 戦後北朝鮮(1950年代)における代表的な役職 / 8月宗派事件(1956年)前後の状況を併記した。

中国共産党のもとで活動した人物 編集

  • - 1942年合流、朝鮮独立同盟主席 / 最高人民会議常任委員会委員長 / 1958年粛清。
  • 崔昌益[2] - 1941年合流、朝鮮独立同盟副主席 / 副首相兼財政相 / 1956年党除名、57年獄死または処刑。
  • 許貞淑 - 崔昌益の妻、朝鮮独立同盟で活動 / 文化宣伝相 / 失脚を免れ、党中央委書記まで昇進、1991年死去。
  • 金昌満 - 朝鮮独立同盟幹部 / 党宣伝扇動部長、教育相 / 失脚を免れ、副首相まで昇進、1966年粛清。
  • 武亭[2] - 1920年代入党、朝鮮義勇軍総司令 / 朝鮮人民軍第2軍団長 / 1952年病死。
  • 金雄 - 新四軍部隊参謀、朝鮮義勇軍第1支隊長 / 朝鮮人民軍第1軍団長、民族保衛副相 /
  • 朴一禹 - 1928年入党、朝鮮義勇軍副司令 / 内務相 / 1955年失脚。
  • 朴孝三 - 1941年朝鮮義勇隊員として共産党区域に移動、朝鮮義勇軍副司令 / 第1、2次党中央委員、朝鮮人民軍第9師団長、副総参謀長 / 1959年頃政治的失踪[3]
  • 李相朝 - 1940年入党、朝鮮義勇軍第3支隊長 / 朝鮮人民軍副総参謀長、駐ソ連大使 / ソ連、のちに韓国に亡命
  • 方虎山 - 満州事変後、共産党抗日遊撃隊に参加、ソ連留学、八路軍指揮官 / 朝鮮人民軍第6師団長、朝鮮人民軍第5軍団長 / 消息不明(中国亡命?)。
  • 李権武 - 満州事変後、東満で抗日活動に参加、ソ連留学、八路軍部隊参謀[4] / 朝鮮人民軍師団長、軍団長、集団軍司令官、総参謀長 / 消息不明。
  • 尹公欽 -   / 商業相 / 1956年粛清。
  • 徐輝 -   / 朝鮮職業総同盟委員長 / のちに中国に亡命 
  • 鄭律成 - 1939年入党、朝鮮人民軍倶楽部部長 / 朝鮮人民軍協奏団団長 / のちに中国に移住

延安派に近い行動をとった人物 編集

自由北朝鮮臨時政府 編集

自由北朝鮮臨時政府、別名、朝鮮民主統一救国戦線。国外(主にロシア、中国、韓国日本)に無事政治亡命を果たした旧延安派出身者・旧ソ連派出身者の元北朝鮮政府要職者や、帰国を拒み留学先(主にヨーロッパ)で政治亡命した留学生達により結成された政治組織。常任議長はかつて北朝鮮政府文化宣伝省ヨーロッパ部長で旧南労党派であった朴甲東。旧延安派でソ連大使だった李相朝も常任委員である。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 水野直樹「延安派」「朝鮮義勇軍」、和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』、岩波書店、2002年、ISBN 4-00-080211-9
  • 김중생『조선의용군의 밀입북과 6.25전쟁』명지출판사、2000年。ISBN 89-311-0744-7 

関連項目 編集