成公(せいこう、? - 紀元前539年)は、春秋時代の君主。は姫、は原。

成公
公(周制における爵位は子)
王朝
在位期間 前575年 - 前539年
都城
姓・諱 姫原
諡号 成公
没年 紀元前539年
文公

生涯 編集

紀元前575年4月、滕の文公が死去する[1]と、成公が後を嗣いで滕公として即位した。紀元前572年などの諸侯とともに魚石の拠る彭城を包囲した[2]紀元前571年冬、晋・・宋・衛などの大夫たちが戚で会合をおこなうと、成公は大夫を派遣した[3]紀元前568年、成公は晋・宋・・衛などの諸侯と戚で会合し、盟を交わした[4]紀元前567年、成公はに赴いて襄公と会見した[5]紀元前564年、晋・魯・宋・衛などの諸侯と会合し、を攻撃した[6]紀元前563年春、晋・魯・宋・衛などの諸侯との柤で会合した。同年秋、晋・魯・宋・衛などの諸侯と会合し、鄭を攻撃した[7]紀元前562年夏、晋・魯・宋・衛などの諸侯と会合し、鄭を攻撃した。同年秋にも再び鄭を攻撃した[8]紀元前559年1月、晋・斉・魯・宋などの大夫たちが呉の向で会合をおこなうと、成公は大夫を派遣した。同年夏、晋を中心とする諸侯の大夫たちによる秦に対する侵攻があり、成公は大夫を参加させた[9]紀元前555年10月、成公は晋・魯・宋・衛などの諸侯とともに斉に侵攻した[10]紀元前553年6月、成公は晋・斉・魯・宋などの諸侯と澶淵で会盟した[11]紀元前549年、晋・魯・宋・衛などの諸侯と夷儀で会合した[12]紀元前548年、晋・魯・宋・衛などの諸侯と夷儀で会合した[13]紀元前546年、成公は宋に赴いたが、宋に属国扱いを受けて、会盟に参加できなかった[14]紀元前544年、大夫を派遣して杞の築城に参加させた[15]紀元前543年、晋・魯・宋・衛などの大夫たちが澶淵に会合すると、成公は大夫を派遣した[16]紀元前539年1月丁未、成公は死去し[17]悼公が後を嗣いで滕公として即位した。

脚注 編集

  1. ^ 春秋左氏伝』成公16年
  2. ^ 『春秋左氏伝』襄公元年
  3. ^ 『春秋左氏伝』襄公2年
  4. ^ 『春秋左氏伝』襄公5年
  5. ^ 『春秋左氏伝』襄公6年
  6. ^ 『春秋左氏伝』襄公9年
  7. ^ 『春秋左氏伝』襄公10年
  8. ^ 『春秋左氏伝』襄公11年
  9. ^ 『春秋左氏伝』襄公14年
  10. ^ 『春秋左氏伝』襄公18年
  11. ^ 『春秋左氏伝』襄公20年
  12. ^ 『春秋左氏伝』襄公24年
  13. ^ 『春秋左氏伝』襄公25年
  14. ^ 『春秋左氏伝』襄公27年
  15. ^ 『春秋左氏伝』襄公29年
  16. ^ 『春秋左氏伝』襄公30年
  17. ^ 『春秋左氏伝』昭公3年
先代
文公
前575年 - 前539年
次代
悼公