捕鳥部万
Totoribe no Yorozu.png
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 用明天皇2年(587年)7月
主君 物部守屋
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捕鳥部 万(ととりべ の よろず)は、飛鳥時代の武人。はなし。

出自編集

捕鳥部(鳥取部)はを捕捉することを職業とした品部[1]物部氏の本拠である河内国には、鳥取部の伴造氏族で、角凝魂命の三世の孫である天湯川田奈命の後裔を称する無姓の鳥取氏があり[2]、万もこの一族の可能性がある[3]

経歴編集

物部守屋資人用明天皇2年(587年)の丁未の乱において物部方に属して戦い、100人を率いて守屋の難波の邸宅を守備した。主君の守屋が討たれたのを聞いて、茅渟県の有真香邑(ありまかむら。現在の大阪府貝塚市大久保近辺か)の妻の家を経由して山中に逃亡した。逃げた竹藪の中で、竹を縄でつないで動かし、自分の居場所をあざむいて、敵が近づいたところで弓矢を放ち(『日本書紀』)、衛士の攻撃を受けつつ、「自分は天皇の楯として勇武を示してきたけれども、取り調べを受けることがなく、追い詰められて、このような事態に陥った。自分が殺されるべきか、捕らえられるべきか、語るものがいたら、自分のところへ来い」と弓をつがえながら地に伏して大声で叫んだ。その後、膝に矢を受け、引き抜きながら、なおも、剣で矢を払い、30人ほど射殺し、朝廷の兵士を防ぎ続けるが、弓や剣を破壊後、首を小刀で刺して自害した(『日本書紀』)。

朝廷は万の死体を八つに切り、串刺しにして八つの国にさらせと河内国司に命じたが、串刺しにしようとした時、雷鳴して、大雨が降った。さらに万が飼っていた白犬は万の頭を咥えて古い墓に収めると、万の頭のそばに臥して横たわり、やがて飢死したという。不思議に思った朝廷が調べさせ、哀れに思って、万の同族に命じて、万と犬の墓を有真香邑に並べて作らせた[4]

菊池容斎が著した『前賢故実』には万の肖像がある。

脚注編集

  1. ^ 太田[1963: 3977]
  2. ^ 新撰姓氏録』河内神別
  3. ^ 佐伯[1994: 325]
  4. ^ 日本書紀』崇峻天皇即位前紀(用明天皇2年7月条)

参考文献編集

関連作品編集