曲谷 守平(まがたに もりへい、1923年5月23日[1] - )は、日本の映画監督脚本家である。

まがたに もりへい
曲谷 守平
生年月日 (1923-05-23) 1923年5月23日(101歳)
出生地 日本の旗 日本 東京府荏原郡大井町
(現在の東京都品川区大井
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画テレビ映画
活動期間 1950年 - 1970年
活動内容 1947年 新東宝演出部
1956年 監督昇進
1961年 新東宝倒産
1962年 テレビ映画に転向
1975年ころ 引退
主な作品
九十九本目の生娘
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人物・来歴

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1923年(大正12年)5月23日東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区大井)に生まれる[1]

慶應義塾大学経済学部卒業。

第二次世界大戦後、東宝争議中の東宝の第三組合(新東宝の前身)でアルバイトしていた関係から、1947年(昭和22年)3月に新東宝映画製作所(のちの新東宝)演出部に入社する。助監督として斎藤寅次郎に師事し、斎藤監督のもと、太泉映画(現在の東映東京撮影所)演出部に出向したこともある。斎藤のほか、阿部豊中川信夫並木鏡太郎といったヴェテランたちにも師事し、チーフ助監督に昇進した。

1956年(昭和31年)には、監督に昇進、『美男をめぐる十人の女』で監督としてデビューする。1959年(昭和31年)12月には、『キネマ旬報』誌12月下旬号の「各社新鋭監督座談会 6」に「新東宝の明日と我らの決意」と題し、石井輝男小野田嘉幹土居通芳三輪彰とともに出席している[2]

新東宝の当時の社長大蔵貢が経営する別会社富士映画での4本を含め、同社で20本を監督したが、1961年(昭和36年)8月31日に同社が倒産、曲谷監督の『北上川悲歌』は、同社が製作・公開した最後の作品となる[3]

1962年(昭和37年)には、日活が製作・配給した井田探監督の映画『惚れたって駄目よ』の脚本に参加したのちに、テレビ映画に転向した。日本電波映画や新東宝の後身の国際放映、宝塚映画(現在の宝塚映像)等で多くのテレビ映画を監督したが、1975年(昭和50年)ころに演出の第一線を退き、不動産業に転じたと伝えられる[4]

日本映画監督協会には1958年(昭和33年)4月に入会した記録があるが[5]、現在同協会のウェブサイトに在籍した記録がない[6]。1988年(昭和63年)発行の『映画年鑑』所載の住所録にはその名が見えるが、以降の消息が不明である[7]

2010年(平成22年)、イタリアウーディネで開かれた第12回ウーディネ極東映画祭での特集「新東宝回顧」で上映された15本に、曲谷が監督した『海女の化物屋敷』と『九十九本目の生娘』との2本が選ばれて、上映された[8]

夫人は宝塚歌劇団男役だった星空ひかる[9]

フィルモグラフィ

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特筆以外はすべて監督である[10]

新東宝

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テレビ映画

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  1. ^ a b 曲谷守平キネマ旬報データベース、2009年9月16日閲覧。
  2. ^ 曲谷守平、キネマ旬報映画データベース、2010年10月27日閲覧。
  3. ^ 『日本映画の模索』、今村昌平岩波書店、1987年、p.305.
  4. ^ 『日本映画・テレビ監督全集』,キネマ旬報社、1988年。
  5. ^ 『日本映画監督協会の五〇年』、柿田清二日本映画監督協会、1992年。
  6. ^ 会員名鑑、日本映画監督協会、2010年10月27日閲覧。
  7. ^ 映画年鑑』、時事映画通信社、1988年、p.347.
  8. ^ FEF12, 2010, Area Stampa / Press Area (英語), ウーディネ極東映画祭、2010年10月27日閲覧。
  9. ^ 「花と花の対話-曲谷守平さん・星空ひかるさん・郷ちぐさ」『歌劇 Takarazuka revue』No.513 6月号、宝塚クリエイティブアーツ、1968年6月、104-107頁。 
  10. ^ 曲谷守平、日本映画データベース、2010年10月27日閲覧。
  11. ^ 『作品譜 - 劇場用映画・テレビ用映画』、宝塚映像株式会社、1997年11月、p.76.

外部リンク

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