本多 忠央(ほんだ ただなか)は、江戸時代中期の大名三河国挙母藩主、遠江国相良藩主。官位従五位下兵庫頭長門守

 
本多忠央
時代 江戸時代中期
生誕 宝永5年(1708年
死没 享和2年(1802年)?
改名 忠就(初名)、忠央、紫翁(号)
戒名 本誠院殿義山忠央大居士
墓所 東京都江東区亀戸の長寿禅寺
官位 従五位下兵庫頭長門守
幕府 江戸幕府 大番頭寺社奉行、西丸若年寄
主君 徳川家宣家継吉宗家重
三河挙母藩主→遠江相良藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 本多忠次本多忠利
兄弟 忠央忠雄井上正之正室
本多忠統
忠由土井利庸正室
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生涯編集

宝永5年(1708年)、挙母藩2代藩主・本多忠次の長男として誕生。正徳元年(1711年)11月20日、父・忠次の死去により、家督を継いだ。享保7年(1722年)12月18日、従五位下・兵庫頭に叙位・任官する。後に長門守に遷任する。 寛保2年(1742年)6月に大番頭となる。

寛延2年(1749年)2月6日に遠江相良に移封され、寺社奉行となった。宝暦8年(1758年)に西丸若年寄に就任するが、郡上一揆が原因で美濃国郡上藩主・金森頼錦が悪政を理由に改易されると、忠央も一揆の報告を受けながら対応を放置した職務怠慢を咎められ改易され、松平長孝預かりの身となった。代わって相良藩には事件を審判した田沼意次が入った。

明和5年(1768年)に罪を許されて赦免された後は、江戸にいる舅の本多忠統や養子・忠由有馬一準の三男)のもとで余生を過ごしながら、享和2年(1802年)に95歳で死去した。天明8年(1788年)6月24日に81歳で没したという説もある。

系譜編集

参考文献編集