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本橋精一

本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1月31日[1])は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。

来歴・人物編集

早稲田実業在学中は、甲子園に6回出場[2]。春2回(1932年1933年)、夏4回(1931年1932年1934年1935年)出場。1931年~1932年春は二塁手[3][4]、1932年夏は三塁手[4]、1933年は遊撃手で出場し[5]ユーティリティープレイヤーぶりを発揮。翌1934年から投手で出場した[6][7]。1935年夏は準決勝まで進出し、育英商(現・育英高等学校)の佐藤平七(後に毎日阪急でプレー)と投げ合ったが、延長10回サヨナラ負けを喫した(スコアは3-4x)。中学時代のチームメイトに星野正男(後に金鯱)、南方義一(後に名古屋)、望月潤一(後にイーグルス)、太田健一[8](後にイーグルス、黒鷲)、安永正四郎(後に金鯱)等、後にプロ野球でプレーした選手が何人もいた[9]

1936年に早大に入学、大学野球でも二塁手として出場した。しかし早大卒業後応召され、戦地の中国で病を得て終戦1946年1月31日日本に帰還する事が適わないまま、満州陸軍病院戦病死した。享年30。

東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている[10]

脚注編集