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朽木 玄綱(くつき とうつな)は、江戸時代中期の大名丹波国福知山藩5代藩主。福知山藩朽木家6代。

 
朽木玄綱
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年9月11日1709年10月13日
死没 明和7年8月30日1770年10月18日
改名 舎人(幼名)→玄綱
戒名 徳温院殿俊山良哲大居士
墓所 東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下土佐守
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行
主君 徳川吉宗家重家治
丹波福知山藩
氏族 大給松平家朽木氏
父母 父:松平乗紀
母:朽木稙昌娘・お久(宝光院)
養父:朽木稙治
兄弟 松平乗賢、吉三郎、松平致乗、田宮、玄綱、亀之助、水谷建英、栄久院、松平義堯養女、知久久徹
養兄弟:昌充迪綱綱貞
正室:内藤清枚娘・乾了院
側室:お咲(廊了院)
舖綱松平乗純(四男)、牧野成音(六男)、松平乗保、浄鏡院[1]内藤長好正室、柴田勝満正室、松平忠孝正室、朽木道綱正室
養子:綱貞

生涯編集

宝永6年(1709年)9月11日、美濃国岩村藩3代藩主・松平乗紀の五男として誕生。享保12年(1727年)閏1月2日、母方のおじにあたる福知山藩4代藩主・朽木稙治の養子となる。同年閏1月15日、8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。同年12月18日、従五位下出羽守に叙任する。享保13年(1728年)11月23日、稙治の隠居により家督を継いだ。

藩政では享保17年(1732年)、享保の大飢饉が原因で、享保19年(1734年)に享保の強訴と呼ばれる騒動が起こり、藩内は混乱した。このため、米価高騰により自らの生活を最低にして出費を抑えている。また、明智光秀御霊法会を許可している(御霊祭りの開始)。さらに後継者問題でも、稙治が先に養子にしていた綱貞(稙治の甥、玄綱の従弟にあたる)の病が癒え、不和だった養父も死去したことで、綱貞を擁立する家臣一派と自らの子を擁立したい玄綱が対立した。もともと大給松平家から養子として入った玄綱には後ろ盾がなく、綱貞を養子にしたが、このことにより藩政では玄綱の発言権が弱くなった。

このように混乱続きの藩政で、玄綱の功績には文武の発展がある。享保19年(1734年)9月28日、奏者番に就任する。宝暦8年(1758年)4月7日、寺社奉行兼任を命じられた。宝暦9年(1759年)閏7月16日、奏者番兼寺社奉行を辞職した。明和6年(1769年)4月18日、日光祭礼奉行を命じられる。明和7年(1770年)8月30日に死去した。享年62。跡を綱貞が継いだ。

脚注編集

  1. ^ 内藤政苗正室、のち間部詮央正室