朽木 稙昌(くつき たねまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名常陸国土浦藩の第2代藩主、丹波国福知山藩の初代藩主。福知山藩朽木家2代。

 
朽木稙昌
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永20年5月19日1643年7月4日
死没 正徳4年2月23日1714年4月7日
改名 弥五郎(幼名)、稙昌
戒名 隆徳院馨隠自香大居士
墓所 東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下伊予守
幕府 江戸幕府奏者番
主君 徳川家綱綱吉
常陸土浦藩主→丹波福知山藩
氏族 朽木氏
父母 父:朽木稙綱、母:安藤重長の養女・長寿院
兄弟 稙昌則綱三浦安次正室、内藤政親正室、木下俊長正室
正室:岡部宣勝の娘・作姫
側室:知光院、桂芳院
稙元稙治土屋秀直稙栄昌充迪綱、久、大田原純清正室、近藤政徳正室、池田政森正室、水谷勝時正室、藤堂良端正室
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生涯

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寛永20年(1643年)5月19日、土浦藩の初代藩主・朽木稙綱朽木元綱の三男)の長男として誕生。万治3年(1660年)に父が死去したため、翌年に家督を継いだ。このとき、弟の朽木則綱に3,000石を分与している。

寛文7年(1667年)に奏者番に任じられる。寛文9年(1669年)9月、5,000石加増の3万2000石で丹波福知山藩に加増移封された。しかし移封のための出費、天災などにより藩財政が悪化し、元禄4年(1691年)には5ヵ年にわたる家臣の知行の半知を行なっている。また、足軽の大量解雇や藩札発行の停止などを実施しつつ文化の発展にも尽力した。正室の父・岡部宣勝の影響をうけて織部流の茶人でもあった。

宝永5年(1708年)6月25日、家督を長男の稙元に譲って隠居する。正徳4年(1714年)2月23日に死去した。享年72。

系譜

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脚注

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