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高輪(たかなわ)は、東京都港区町名。現行行政町名は高輪一丁目から高輪四丁目。郵便番号は108-0074(高輪局管区)[3]

高輪
品川プリンスホテル
品川プリンスホテル
高輪の位置(東京都区部内)
高輪
高輪
高輪の位置
北緯35度38分18.71秒 東経139度44分13.8秒 / 北緯35.6385306度 東経139.737167度 / 35.6385306; 139.737167
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 港区
地区 高輪地区
面積
 • 合計 1.28 km2
人口
2019年令和元年)8月1日現在)[2]
 • 合計 22,731人
 • 密度 18,000人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
108-0074[3]
市外局番 03[4]
ナンバープレート 品川
※座標は高輪高等学校付近[5]

地理 編集

東京都港区の南端に位置し、東京都心の境界に当たる。高輪地区総合支所管内に属する。泉岳寺駅高輪ゲートウェイ駅品川駅のそれぞれ西側にあたる。

泉岳寺をはじめとして由緒ある寺社が数多く点在し、緑多き佇まいの閑静な住宅街でもある。町域は幹線道路である国道1号桜田通り)・国道15号(第一京浜)に挟まれ、JR新幹線京急各線の品川駅都営浅草線泉岳寺駅高輪台駅、そして東京メトロ南北線都営三田線の延伸により設置された白金高輪駅があるため、地形ほど交通の便は悪いわけではない。

東海大学付属高輪台高校・中等部東海大学の高輪キャンパスがあり、文教都市としての側面も持つ。また、町域南側にあたる品川駅高輪口周辺にはプリンスホテルを中心とした大規模なシティホテルが多数立地している。高輪ゲートウェイ駅西側では車両基地跡地を活用して高輪ゲートウェイシティという大規模な再開発が進行中である。

の多い地形で、全体に南北に長い丘陵地の形をしている。東側はかつては江戸湾東京湾)に面した斜面で、斜面の下を海沿いに東海道が通っていた。東海道は現在の国道15号(第一京浜)であり、江戸の玄関口である高輪大木戸の跡が残されている。西側に下ると国道1号を境に白金白金台と接する。

歴史 編集

江戸時代江戸の町外れで、町人町の他にも高台には諸下屋敷が置かれたことから、明治時代以降に財界人などの邸宅が建ち並ぶ地となった。このため、今でも都心の著名な住宅街の一つとして知られており、2012年と2014年に『週刊ダイヤモンド』誌が行った調査では、いずれも「上場企業の社長/会長が多く住む街ランキング」の第1位になっている。しかし、かつての邸宅の多くは、既にホテルマンション、公共施設に変わり、失われてしまった。 2000年秋の白金高輪駅開設以来、2004年-2005年を境に桜田通り沿いはタワーマンションが目立つようになった。

さらに2020年3月にはJR高輪ゲートウェイ駅開業とそれに伴う線路の東への移動が予定されている。港区は線路による同じ町丁の分断を避けるため、高輪二・三丁目と三田三丁目をやや広げるなど町区域の変更を予定している[6]

地名の由来 編集

高輪の地名は、戦国時代軍記物語の中に「高縄原」として書かれていることに由来する。高縄とは高縄手道の略語であり、「高台にある真っ直ぐな道」を意味している。ちょうど丘陵の中心部を南北に走る二本榎通りが、あたかも高い所に張った縄のようであったからと伝えられる。

 
歌川広重

またこのほかに、『吾妻鏡』の中に登場する1189年文治5年)の奥州合戦の際、鎌倉から成田助綱の御供をした人物の一人として挙がっている高鼻和太郎に因んで高輪の地名がついたとする説もある。

沿革 編集

  • 1524年大永4年) - 高輪原の戦い(高縄原の戦い)があり、北条氏綱上杉朝興の両軍がこの地で衝突し、氏綱が江戸城を勝ち取った。
  • 江戸時代初期 - 高輪の地は南北に分かれ、それぞれ武蔵国荏原郡上高輪村・下高輪村となる。
  • 1662年寛文2年) - 荏原郡上高輪村が町奉行支配となり荏原郡より離脱し、新たに芝田町・芝通新町・芝横新町・芝伊皿子町・芝伊皿子台町・芝伊皿子七軒町・芝伊皿子明下町が起立される。上高輪村が消滅した後も、明治初年まではこの地域を総称して上高輪町と呼ぶことがあった。
  • 1713年正徳3年) - 荏原郡下高輪村が町奉行支配となり荏原郡より離脱し、新たに高輪北町・高輪中町・高輪南町・高輪北横町・高輪台町・高輪小台町が起立される。下高輪村が消滅した後も、明治初年まではこの地域を総称して下高輪町と呼ぶことがあった。
  • 文化年間初期(1810年頃)葛飾北斎『阿蘭陀画鏡(おらんだえかがみ)江戸八景 高縄』に描かれる(海岸線の景色)。
  • 江戸時代後期に「廿六夜待ち」の月の名所として人気を集める。
  • 1868年(明治元年) - 東京府の成立に伴い、高輪地区は東京府に所属する。
  • 1869年(明治2年) - 高輪地区の町域統廃合が行われる。上高輪町のうち芝伊皿子台町は芝伊皿子町に、芝伊皿子七軒町と芝伊皿子明下町はそれぞれ三田松坂町・芝三田四丁目に編入されて消滅する。また、下高輪町のうち高輪北横町は高輪北町に、高輪中町は高輪南町に、高輪小台町は芝二本榎に編入されて消滅し、寺社地に新たに下高輪町が起立される。
  • 1872年(明治5年) - 新橋駅-横浜駅間に日本初の鉄道が開通し、品川駅が高輪南町に開業する。武家地に新たに高輪西台町が起立される。
  • 1878年(明治11年) - 芝区の成立に伴い、高輪地区は芝区所属となる。
  • 1889年(明治22年)5月1日 - 東京市の成立に伴い、高輪地区は東京市芝区となる。
  • 1947年昭和22年)、芝区が赤坂区麻布区と合併し、新たに港区が成立する。それに伴い、高輪地区の町名にすべて「芝」の冠称がつく。
  • 1967年(昭和42年)7月1日 - 住居表示が実施され、高輪地区に周辺の白金地区の一部などを併せて現在の高輪が成立した。

変遷 編集

実施後 実施年月日 実施前(各町名ともその一部)
高輪一丁目 1967年7月1日 芝高輪西台町、芝君塚町、芝白金丹波町、芝二本榎本町、芝二本榎一丁目、芝三田松坂町、
芝伊皿子町、芝白金志田町、芝白金三光町、芝三田台町三丁目
高輪二丁目 芝車町、芝高輪台町、芝伊皿子町、芝高輪北町、芝二本榎一丁目、芝二本榎二丁目
高輪三丁目 芝下高輪町、芝高輪北町、芝高輪南町、芝二本榎二丁目、芝二本榎西町、芝白金猿町
高輪四丁目 芝高輪南町

史跡 編集

世帯数と人口 編集

2019年令和元年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目 世帯数 人口
高輪一丁目 3,880世帯 6,983人
高輪二丁目 3,751世帯 6,651人
高輪三丁目 2,561世帯 4,767人
高輪四丁目 2,363世帯 4,330人
12,555世帯 22,731人

小・中学校の学区 編集

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]

丁目 番地 小学校 中学校
高輪一丁目 1~3番 港区立白金の丘学園 港区立白金の丘学園
4〜5番 港区立御田小学校 港区立三田中学校
その他 港区立高輪台小学校 港区立高松中学校
高輪二丁目 全域
高輪三丁目 全域
高輪四丁目 全域

交通 編集

 
品川駅高輪口

鉄道 編集

バス 編集

道路 編集

施設 編集

 
仙洞仮御所高輪皇族邸
 
泉岳寺
 
高輪消防署二本榎出張所

高輪一丁目 編集

高輪二丁目 編集

高輪三丁目 編集

高輪四丁目 編集

脚注 編集

  1. ^ 平成27年国勢調査による各総合支所管内別の町丁目別面積・昼夜人口等”. 港区 (2015年10月1日). 2019年9月8日閲覧。
  2. ^ a b 各月1日現在の各総合支所管内別の町丁目別人口・世帯数(平成14年~平成31年・令和元年)”. 港区 (2019年8月1日). 2019年9月8日閲覧。
  3. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月7日閲覧。
  5. ^ Google Earthより
  6. ^ 山手線の新駅周辺 住居表示を変更「高輪」拡大/港区、線路に合わせ整理へ日本経済新聞』朝刊2019年11月21日(東京経済面)2020年1月6日閲覧
  7. ^ 港区立小・中学校通学区域一覧表”. 港区 (2015年4月1日). 2019年9月8日閲覧。

参考文献 編集

  • 『まち探訪ガイドブック』2007年度版、港区発行
  • 『週刊ダイヤモンド』2012年10月20日号、2014年9月27日号

関連項目 編集

外部リンク 編集